1.はじめに
司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」の「抜錨」の章に、秋山真之参謀の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の一節があることは有名です。明治38年5月27日に日露戦争・日本海海戦の行われた対馬海峡は、低気圧通過後の晴天で、視程が良いものの等圧線の間隔が狭く、風強く浪高い状態が続いていました。もともとは、岡田武松気象官が熟考の末、一個の断をくだした「天気晴朗なるも浪高かるべし」が基となり、秋山参謀が、この予報文をとりあげ、さらに簡潔にし、「本日天気晴朗なれども浪高し」としたものです。つまり「天気晴朗」とは視程が遠くまで届くため、とりにがしは少なく、砲術においても視界が明瞭であれば命中率が高くなり、撃滅の可能性が大いに騰がることを示唆し、「浪高し」とは、長途の航海を経てきたバルチック艦隊に比して射撃訓練の充分な日本側のほうに利し、「きわめてわが方に有利である」気象条件であったことを示したものと言われています。
ここに気象条件と海の状況について、もう一つの現象を示したいと思います。それは「本日天気晴朗なれども潮速し」という気象と潮に関する事柄です。これは台風や低気圧が「ある湾の沖合」を通過した後、半日~1日後に起こるきわめて速い潮のことです。台風一過の晴天で、波も風も穏やかであるが、目前の海中では、強い流れ(急潮)が発生する状態を示しています。
天気晴朗とは、それが普段の日昼であれば、整然と並ぶ定置網の浮子(あば)を見ることができます(図1)。しかし、潮速しという状況では、潮の上流側から浮子が海中深く沈下して定置網の姿の大半は見えません(図2)。
定置網は上流側の台浮子から沈下して側張は第一箱網まで海面上から見ることはできない。(日本海における急潮予測の精度向上と定置網防災策の確立研究成果報告書より)
また、潮流の力でワイヤーロープや錨綱が破断された場合には、図3のように、浮子や網が一箇所に集合して混沌となります。
漁具に熟知した漁業者の皆様は、潮が弛むのを待ち、晴朗な天候が続く限り、漁具の撤去作業を行います。網とワイヤー、浮子が、これほど、というまでに絡み合い、それを解し、あるいは切断して作業は続きます。被害の全容が明らかになるのは、天候にも左右されますが、1~2週間後でしょう。その後、復旧資材の発注を進め、数万俵の土俵を詰め、2~3か月で、次の盛漁期に間に合わせて急ピッチな作業が進められます。「本日天気晴朗なれども潮速し」は、そのような過酷な作業のスタートを意味するのです。
ここでは、これらの気象が影響する潮の現象についてお話したいと思うとともに、更に一歩進めて「気象と無関係」ともいえる黒潮の影響による音もなく忍び寄る「本日天気晴朗なれども潮速し」の現象のことも併せてお話したいと思います。
(石戸谷2010)
石戸谷 博範いしどや ひろのり
【略歴】
1954年神奈川県生まれ、神奈川県立湘南高校から東京水産大学修士課程修了後神奈川県庁入庁、農政部水産課、東京水産大学講師(神奈川県在職のまま)、水産技術センター相模湾試験場長、2015年退職。2009年水産海洋学会より「相模湾における急潮と定置網漁業防災対策に関する研究」で宇田賞を受賞、現在、東京大学平塚総合海洋実験場、博士(東大農学)