講演
ALPS処理水の海洋放出が水産業に及ぼした経済的インパクトおよび本シンポジウムのねらいについて
濱田 ただ今紹介いただきました、濱田です。専門は水産経済、水産政策ということで、いろいろな水産業の現場を回って、調査、研究させていただいています。先ほど渥美会長からお話がありましたとおり、東京水産振興会の依頼を受け、「ALPS処理水の海洋放出が水産業に及ぼした経済的インパクト」というテーマで「水産振興ONLINE」に寄稿させていただき、2025年3月に水産振興誌第647号として公開されています。本日は、その内容をもとにして本シンポジウムの狙いをお話ししたいと思っています。詳しくは「水産振興ONLINE」をご覧いただければと思います。
それでは、早速本題に入りますが、まずはことの始まりからお話しする必要があるかと思います。ご存じのとおり、2011年3月11日の東日本大震災の直後に福島第一原発で重大な事故が起こりました。そして、事故のあった原発建屋から、高濃度の放射性物質が含まれた汚染水が海に流出しました。その後、最初はコウナゴだったと思いますけれども、福島沖などで漁獲された魚の体内から高濃度のセシウムが検出されたことが明らかになり、その後、長期にわたって、水産物の買い控えにつながっていきます。海への流出を防ぐため、汚染水は原発構内に保管するために東京電力は貯水施設をどんどん構内に建てて、汚染水を貯めていきました。
一方で、汚染水の発生を抑制するため、原発建屋の中に入り込む地下水を少しでも減らすべく、地下水バイパスや地下水汲み上げ用のサブドレインを設置するなどの対策により、1日当たりの汚染水発生量が当初400トンだったのが現在では70トン程度までかなり押さえ込んでいます。また原発周辺の地面もコンクリートで固めるなどして、雨水の流入も防ぐなどかなりの努力をして汚染水の発生を抑えています。
また、バイパスとサブドレインで流入を止めたこれらの地下水を海洋放出する際には、当時相当もめたのですが、1リットル当たり1,500ベクレルという、国の放出基準(法定告示濃度)の40分の1の濃度に抑えるということで、ひとまず漁業関係者の了解を得て、汚染水を減らす方向が確定しました(図1)。
そして2013年からは汚染水対策として放射性物質を除去するALPS(多核種除去設備)が導入され、トリチウムだけは取り除けないので、トリチウムを含んだ処理水を貯蔵するタンクが敷地内にどんどん増えていきます。政府としてはこのALPS処理水をどうにかしなければならないということで、経産省が専門の対策委員会である「トリチウム水タスクフォース」を設置しました。その後、技術的な問題だけではなくて、社会的影響も考慮したALPS処理水の取り扱いに関する小委員会を設置し、長い時間をかけて検討を重ねた結果、処理方法を5つほどに絞り込みました。そして、最終的に大気放出と海洋放出という2つの方法に絞った上で、2021年4月の閣僚会議で海洋放出を決定しました。菅内閣の時でした。その後、政府と関係する各省全体で、この海洋放出に向けて、大々的な対策が練られて実行に移されてきました。そして、8月24日に海洋放出を開始したということです(図2)。
海洋放出のリスクで最も恐れられていたのは風評被害でした。これは、大気放出の場合も同様です。ただ、先ほど話しました地下水バイパスやサブドレインで汲み上げた地下水の海洋放出と同様、トリチウムを含む処理水とはいえ、きちんと1リットル当たり1,500ベクレル以下まで希釈するということで、科学的に問題は無いということで理解を得る作業をしていったということです。
私自身も別にこの方策に関して科学的に疑いを持つような専門性はないので、これはそのとおりだと思います。ただ、風評被害というものに対しては、どのような対策をとるのかという大きな課題について関心を抱いていました。
閣僚会議での決定により風評影響対策を各省庁全て動員して対応するわけですが、海洋放出によって各国が日本産水産物の輸入規制を行う可能性は十分あり、それまで農林水産業の成長戦略として国が強く進めてきた輸出振興の上で大きな障害となり得ることが予測されました。そのため、スライドにも記載していますが、私は海洋放出決定後に北海道新聞のインタビューでそうした懸念について述べています。
2013年のことです。原発建屋から汚染水が漏れていたということで、韓国が東北・関東8県産水産物の輸入規制をしました。それは今も続いています。この禁輸措置は、ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で当時の安倍首相が大丈夫だとスピーチをした後ということもあって、いろいろな政治的絡みもあったかと思います。国際関係の中では、科学的根拠があったとしても、政治的な思惑が働く可能性があり、気を付けなくてはならないのです。
そして、2023年の1月9日には、これも北海道新聞のインタビューですが、中国にホタテガイの輸入規制をされたら北海道内の水産加工業者は大きなダメージを受けますという話をしました。残念ながらその通りになってしまったわけです。
また、東京水産振興会の依頼で2023年の海洋放出の直前に寄稿した論稿(「水産振興ONLINE」水産振興誌第642号)を書いたのですが、こういう食品に関するネガティブなストーリーは必ず利用される、ということです。それは単に風評被害というものではなく、いろいろな流通過程の中で、買う側にとっては値下げ交渉やさまざまな交渉のカードに使われてしまうということです。このことをよく理解した上で考えなくてはいけないと思い、メディアを通して警鐘していました(図3)。
そして、実際に8月24日に海洋放出が行われた後、国内メディアに関しては扇情的な報道は無く、東日本大震災直後のような水産物の買い控えや消費者離れの動きはほとんど無かったわけです。細かく見れば全く無かったわけではないですが、東日本大震災直後に比べて非常に微々たるケースだったということです。
ところが、ご存じのとおり、中国、ロシアは日本産水産物の全面禁輸。香港、マカオは10都県産水産物等の禁輸措置ということで、ロシアは少しタイムラグがありましたけれども、このような形で日本の水産物輸出の勢いが止められるようなことが起こりました。韓国は当時の尹大統領がある程度、親日派ということもあり、全面的な禁輸措置は取らなかったのですが、今なお東北・関東8県産水産物の禁輸措置は継続しています。
原発事故から今日に至って国内では風評被害はほとんど無くなった一方で、海外需要を喪失してしまったのは重大な問題です。その影響は輸出関係者だけが受けているわけではありません。輸出先を失った水産物が国内市場に向けられたため供給過剰となり価格が急落するという、国内での環流被害も生じています。
なお放出前はどうだったかというと、国内の生産量が減り続けているため輸出量も下降していたのですが、コロナ禍以降は輸出金額がずっと伸びていたので、放出前は輸出政策が非常に功を奏していたわけです(図4)。
日本の水産物輸出先は元々、香港への輸出金額が一番多かったのです。3番目がアメリカ、2番目が中国でした。しかし2020年から中国への輸出金額が急増し、海洋放出の直前までは中国が最大の輸出先国になり、輸出の牽引役を果たしていました。そこに禁輸措置を取られたので、日本の水産業界は大打撃を受けるわけです(図5)。
海洋放出は対外的に非常によろしくない影響が想定されるので、政府としてはあらためてさまざまな対策を行いました。放流直前には「ALPS処理水の処分が完了するまで安全確保、風評対策・なりわい継続に全責任を持って取り組むことを確認した上で、海洋放出を開始」する方針を示し、また当時の岸田首相はJF全漁連会長等との面会の際、全責任を国が持ち、業界に寄り添った対応を続けることを表明しました。
放流直後の9月には5つのスキームから成る「水産業を守る」政策パッケージを公表し、漁業者対策から水産加工業者対策まで政策メニューが組まれました。ただ、政府の対策というのは、あくまで新たな取り組み、前向きな対策に対する予算措置ということで、損害を補償するものではなかったのです。損害については東電の賠償で補ってくださいというスキームとなったわけです(図6)。
ここで、輸出金額の損失を確認します。農水省では年次ごとの輸出額しか公表されていませんでした。これでは影響がわかりません。大変な作業ではありましたが、私のほうで財務省の「貿易統計」のデータを使って、どれほどの輸出減額になったのかをできるだけ正確に知るための集計をしました。その集計方法ですが、海洋放出は2023年8月24日だったので、2022年の9月から2023年の8月末までを放出前1年、そして2023年の9月から2024年の8月末までを放出後1年として、農水省が定めている全水産物の金額を出しました。ただし、食用ではない水産宝飾品(真珠や宝石サンゴなど)は禁輸措置と関係ないので、それを差し引いた結果、758億円のマイナスでした。さらに観賞魚(錦鯉など)も除いて再集計すると769億円のマイナスとなり、さらに減少額が広がる結果となりました(図7)。
最も輸出が多いホタテガイについて、「貿易統計」で拾える4品目について見ると、中国に輸出していたものからアメリカに輸出していたものまで含めて全て大きく落ちこみ、1年間でマイナス340億円ですので、損失総額の約4割がホタテガイ関係であったことが分かります(図8)。
ホタテの次に多いのはナマコで、品目別に調べたところ合計で117億円の減額が確認できました(図9)。
次に福島県内での影響ですが、福島県地域漁業復興協議会からいただいたデータにより、処理水放出前後の福島県沿岸漁業の水揚高を比較したものがこのスライドです(図10)。放出前後で水揚量は増えていますが、金額は41億円から37億円に減っています。福島県産水産物は原発事故後には中国などへの輸出はありませんので、禁輸措置による直接的な影響はないのですが、好不漁がはげしいシラスの漁獲量の影響を除いたとしても、全体として数量増・金額減となっていました。
さらに魚種別に、数量と価格の増減で4つにタイプ分けをしたのがこのスライドです(図11)。数量と価格の両方が減ったタイプ(A)は14魚種。次に数量は増えたのに価格が大幅に下がったタイプ(B)が6魚種で、数量は落ちて価格も小幅にしか上がらなく金額が落ちたタイプ(C)は17魚種ということで、これらの背景には必ずしも海洋放出が直接関係しているとは言えず、他の構造的な要因があると思います。
いずれにしろ、円安も背景にして海外需要が増えていた局面で海洋放出後、先ほども言いましたとおり、福島県の沿岸魚種については風評被害や禁輸措置の直接的な影響は無かったものの、福島県全体で漁獲量が減っていないのに漁獲金額が落ちこみました。複数の原因があってそうした結果をもたらしたのですが、禁輸措置の影響が巡り巡って福島県内の需要を縮めた可能性は否めません。例えば、この10年、カレイ類の販売不調が続いている中、北海道などから加工原魚として冷凍カレイを中国に輸出していましたが、それが禁輸措置により止む無く国内マーケットに向かい、値崩れを起こしました。図11にはカレイ類が多いです。それが、福島県産にも影響した可能性があります。
一方で、水産宝飾品は禁輸の対象外ですので、放出後は逆に輸出額が増えており、中国も旺盛に日本から輸入しています(図12)。
次に国別の輸出状況についてです。輸出先上位12か国・地域における海洋放出前、海洋放出後および放出2年目(2024年9月~2025年8月末)の3つの時期での各輸出額を比較したのがこのスライドです(図13)。現在、全体的に輸出は好調なのですが、それでも海洋放出前の総額と比較するとまだ低く、2年目でも海洋放出前を下回っています。
放出前よりも輸出額が低い箇所には赤のマーカーを入れていますが、中国、香港、シンガポール、チリでは2年目になっても放出前の輸出額まで回復していません。また台湾、韓国、マレーシア、インドネシアでは放出後は下回ったものの2年目では放出前を上回っています。一方、中国への輸出がストップしたため、加工原料向け水産物の一部が加工貿易の拠点であるベトナムとタイに輸出された影響で、放出前と比べて増加を続けていますし、対米輸出も好調のようです。
ただし、放出前に比べて輸出額がプラスかマイナスかという問題よりも、現在の日本の貿易環境自体を考えることが重要です。東日本大震災直後は、その数年前のリーマンショックの影響で円高が進行していましたから、現在と違い輸入に有利な状況でした。そのため、風評被害により三陸産などの水産物が忌避されその代替として輸入水産物が増えたという側面はもちもんありますが、そもそも当時は輸入環境が良かったのです。結果として、輸入水産物の供給が大幅に増えた影響で、国産水産物の産地価格が下落したというケースも多くありました。ところが現在の日本は円安ですから輸出の方が有利な状況にあります。
こうした貿易環境の変化を為替相場(ドル円レート)と実質実効為替レート指数の推移で表したのがこのグラフです(図14)。実質実効為替レートとは、為替レートのインパクトだけではなく海外の経済状況も加味した指標で、数値が低いほど輸出がしやすい環境だといえます。このグラフを見ると、まだ日本が旺盛に輸出していた1970年代よりも現在の方がさらに実質実効為替レート指数が低いため、輸出環境がとても良かったことが解ります。
そういう好条件の中での海洋放出だったわけですから、輸出額が放出前に戻ったなどと喜んでいる場合ではなくて、本来はもっと多く輸出でき、輸出金額を稼ぐことができたという点を見逃してはいけません。水産業界はもっと稼げた環境にあったのに、それが海洋放出により利益を逸してしまったということです。
そこで、東日本大震災の教訓についてあらためて考えてみたいのですが、漁業対策については、風評被害への対応などを含めてしっかりと出来上がって、政府にノウハウが蓄積されてきました。もちろん風評被害については、他産地の生産状況や為替レートも含めた貿易状況などさまざまなファクターが絡んで価格形成されるため、当該水産物の価格下落が原発事故に由来するものかどうかの判定はとても難しく、原発事故のせいだと決めきれないケースも一部あるし、中には事故とはほとんど関係ないとみられる部分もあったと思います。そうした風評被害対策の困難さについて私はずっと主張してきて、このスライドにも載せていますが、論文でも書いています(図15)。
さらに注目すべき問題として、漁業については漁業共済の仕組みも使った団体交渉ができましたが、水産加工業界の方ではそのような仕組みがなく、賠償については個別交渉頼みで、かなり厳しい状況だったと思っています。
そうした教訓を踏まえ、今回の処理水問題を見ますと、やはり水産加工業者への対策が大きな課題となります。もちろん水産パッケージの中にそれは組み込まれていたのですが、本当にそれが十分だったのかという点が今回の問題意識の根底にあります。水産加工業は漁業と違い政策への関与が元々弱く、そして経営的な被害は個別の事業者が自ら立証していかなくてはならないわけです。明らかに被害を受けているのに、そのエビデンスを全部自ら立証しなくてはいけません。つまり、対策に時間やコストを要するわけです。
そうなってくると、同じ水産加工業でも、組織力や資金力、情報収集やデータ管理の能力などをそなえた大規模事業者ならばある程度の対応はできますが、小規模な事業者ほどそうした能力を持たないので、圧倒的な不利な立場に置かれます。しかも、金融機関が見放す可能性も高いということで、小規模事業者ほど泣き寝入りして、撤退を早めていくのだというのが、当初から思っていたところです(図16)。
つまり、政府としてALPS処理水の海洋放出について業者に寄り添って対応し、一所懸命責任を持ちますと表明されるのは結構なことですが、そうした観念的な言葉ではなく、実質的な救済の仕組みこそが必要とされるのです。財政政策や賠償など、どんなに対策メニューが揃っていても、救いきれない人は絶対に出てきます。犠牲は必ず伴うというようなことが、今日シンポジウムをやる上で重要な論点としてあるというところです。
そこで、このシンポジウムではお二方の専門家に話題提供をお願いしました。1人は水産物安定供給推進機構参与の坂井さんで、この水産パッケージに関わる効果と課題についても触れていただきたいと思います。特に政策と現場との関係については、かなり尽力して対応され、実感を持ってお話しいただけるということで今日お越しいただいたところです。
そして、もうお一方が弁護士の加藤聡一郎さんです。ALPS処理水の海洋放出の影響で非常に困っている水産加工業者のところに赴いて、いろいろと対応していただいて、現在進行形でいろいろやっていただいているということです。いろいろな係争中のものも多いので、全てはお話しいただけないのですが、現状についてお話しいただくということにしています。
司会 濱田様、ありがとうございました。それでは次に坂井様にご講演いただきます。















