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水産振興コラム
20233
おさかな供養のものがたり

第6回 アメリカ産まれの魚と供養

田口 理恵
(元東海大学)

日本人は太古よりさまざまな魚を食用などの資源として利用してきました。また、魚の命をいただくことへの感謝と鎮魂の念を示すため、供養碑の建立など弔いの慣習も育んできました。東海大学海洋学部の田口理恵先生(故人)を代表者とする研究者の方々は、全国各地にあるさまざまな魚の供養碑を詳細に調査され、2012年に『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』(東海大学出版部)を刊行されました。(一財)東京水産振興会は、出版記念として同年に「豊海おさかなミュージアム」で魚の供養碑に関する展示を行い、翌年2月に供養碑に関するシンポジウムを開催いたしました。本書は現在入手が困難ですが、漁業や漁村を理解していただける大変貴重な内容ですので、この度、東海大学出版部などのご承諾を得て、本連載を企画いたしました。ご承諾をいただきました皆様にあらためて感謝申しあげます。

静岡県富士宮市は富士山の湧水に恵まれ、富士の裾野に位置する富士養鱒場には、1990年代に建てられた「虹鱒供養塔」がある。

富士養鱒場のニジマス供養碑
富士養鱒場のニジマス供養碑

ニジマスはもともと日本にいなかった魚である。1877(明治10)年に、米国カリフォルニアからニジマスの卵が移入され、ふ化飼育されたことから国内でのニジマス養殖が始まった。当初は湖沼への放流が行われていたが、明治後半に国内で飼育した親魚から採卵するようになり、以後は国産卵によるニジマス養殖が行われるようになった。1926年(大正15年)「水産増殖奨励規則」の公布によって、全国にふ化場や養殖場ができ、さらに昭和に入ると養鱒の事業化が進む。国内各地でニジマスの内水面養殖が盛んになる時期、1936年(昭和11年)に、静岡県水産試験場富士養鱒場が竣工。

養鱒場では以下の作業を毎年繰り返すことになる。秋になると、3年魚に成長したニジマスをオスとメスに分け、メスの親魚を集めた飼育池で、卵を産みそうなメスを選んでいく。生きたメスを採卵台に乗せて、メスの腹を手で押して卵をしぼり出すと、1匹で3000~4000粒の卵がとれる。オスからも精液をしぼってためておき、しぼりだした卵を1%の食塩水で洗い、洗った卵を1%の食塩水に漬けて、ここにオスからしぼった精液を加えてかき混ぜ受精させる。その後、卵をふ化水槽に入れ管理し、3週間くらいたつと発眼卵に成長する。その発生過程で卵の1/4が死んで白いままに残るので、白い卵は取り除く。発眼卵は場内で飼育する分を残し、あとは発泡スチロールの箱に10万個の発眼卵をいれて県内の養殖業者に出荷される。

発眼卵は7~10日たつとふ化が始まり、仔魚が卵の膜を破って出てくる。仔魚は臍嚢(さいのう)をつけ、水槽の底にじっとしているが、3週間くらいすると臍嚢がしぼみ、水槽の中を泳ぐようになる。この時期からエサを与え始め、その後は魚の成長に応じて飼育池を替えていく。体長15cm、体重120g程度に成長した2年目の魚を食用に出荷し、親魚として残した魚は3年目になり成熟すると卵を持つようになり、秋から初冬にかけて採卵を行う。

採卵後のメスは弱って半分が死ぬという。飼育の過程でも病気になって死ぬ魚があるため、養鱒場で発生する死魚の量は年間トン単位となる。養鱒場では大量の死魚に向き合わねばならず、ニジマスの生命を想い「虹鱒供養塔」を建てたという。職員が山下清の絵をまねてニジマスが2尾刻まれた石の供養碑の前で、毎年、職員有志が集まって供養祭をしていたが、生産業務の民間移管以降は、富士宮市淀師にある養鱒漁協の供養祭に参加するようになったという。

富士養鱒漁業協同組合のニジマス供養碑
富士養鱒漁業協同組合のニジマス供養碑
2023年3月現在「静岡県水産・海洋技術研究所富士養鱒場」。この他、文章の一部について補足修正をしています。

連載 第7回 へ続く

プロフィール

田口 理恵(たぐち りえ)

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。国立民族学博物館・地域研究企画交流センターCOE研究員の後、東京大学東洋文化研究所、総合地球環境学研究所を経て、2005年より東海大学海洋学部海洋文明学科准教授。2014年逝去。
著書『水の器-手のひらから地球まで』(共編著、人間文化研究機構)『ものづくりの人類学-インドネシア・スンバ島の布織る村の生活誌』(単著、風響社)「魚類への供養に関する研究」(共著、『東海大学海洋研究所研究報告』第32号)「もてなしと関わりのなかの水-スンバ島とラオスにおける飲み水の位置」(『人と水-水と生活』、勉誠出版)