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水産振興コラム
20233
おさかな供養のものがたり

第5回 ブリの群れによせる想い

田口 理恵
(元東海大学)

日本人は太古よりさまざまな魚を食用などの資源として利用してきました。また、魚の命をいただくことへの感謝と鎮魂の念を示すため、供養碑の建立など弔いの慣習も育んできました。東海大学海洋学部の田口理恵先生(故人)を代表者とする研究者の方々は、全国各地にあるさまざまな魚の供養碑を詳細に調査され、2012年に『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』(東海大学出版部)を刊行されました。(一財)東京水産振興会は、出版記念として同年に「豊海おさかなミュージアム」で魚の供養碑に関する展示を行い、翌年2月に供養碑に関するシンポジウムを開催いたしました。本書は現在入手が困難ですが、漁業や漁村を理解していただける大変貴重な内容ですので、この度、東海大学出版部などのご承諾を得て、本連載を企画いたしました。ご承諾をいただきました皆様にあらためて感謝申しあげます。

ブリはスズキ目アジ科の魚で、成長につれて呼び名が変わるため出世魚といわれる。地域によって呼び方は異なるが、例えば関西では、稚魚のモジャコから、ワカナ、ツバス、ハマチ、メジロを経て、80cm以上に成長したものがブリとなる。お歳暮の贈答品になる魚を「年取り魚」や「正月魚」というが、西日本ではブリが東日本ではサケが年取り魚の代表となっている。

春から夏にかけて日本海を北上し、晩秋から冬にかけて南下するブリの群れは、富山湾の奥にまでやってくる。そのため富山湾沿岸では、ブリの群れを捕獲するために、大がかりな網が用いられてきた。

氷見の沖合では「台網」と呼ばれた定置網が16世紀末から利用されていたという。明治40年には宮崎県の日高式大敷網が導入され、その後、氷見の上野八郎右衛門によって日高式大敷網を改良した上野式大謀網が考案される。さらに登り網をつけた落し網がうまれ、昭和40年代には二重落し網が考案されるなど、網の改良が続けられ、“越中式落し網(大敷網)” と呼ばれる定置網を発展させてきた。氷見発祥の越中式落し網は、垣網(魚群を囲い網に誘導する)、角戸網(魚が入り込み回遊する溜り場)、登り網(一旦身網へ導かれた魚が、網外へ出ないための網)、身網(魚をとり上げる網)の4つの網からなるもので、沖2~4kmあたり、水深40~70mの場所に張られる網の全長は数百メートルにもなる。

寒ブリとは11~3月に水揚げされるブリのことで、寒ブリ漁の最盛期には1日に数万本のブリが競りにかけられる日もあるという。ブリの群れがもたらす収益は大きく、しかもブリを獲るために網を改良してきた地域だけにブリに対する想いも大きいのだろう、富山湾周辺の各地に、ブリの漁獲や大敷網に関連して建てられた碑や祭事が伝えられている。例えば、射水市の加茂神社には「魚の読み上げ」神事が伝えられており、正月に神社にブリを奉納した地区が読み上げられる。ブリの読み上げ後に、氏子全戸にブリの切り身と鏡餅が配られ、それを食べて一年の無病息災を願うという。富山湾の隣、七尾湾に面する穴水町前波の恵比寿弁天神社には、前波大敷網組合が1973(昭和48)年に組合創業10周年を記念して建立した魚霊碑がある。鹿渡島定置組合では毎年3月に豊漁と安全を祈願するために観音寺祭を行っているという。平成8年に七尾鹿島、鰀目えのめ、野崎の3漁協が合併して発足した、ななか漁協が主催した「魚の供養・満漁祭」は、岸端定置網、鰀目大敷網、白鳥定置網、鹿渡島定置網などの組合や、七尾魚市場、水産業者なども参加して行なわれたという。七尾市の東浜には、寒ブリ大敷網の網元である酒井水産が平成13年に東浜町および東浜町漁協に寄贈した魚霊観音がある。それは酒井水産が漁業部創業50周年の記念に建立した3体の観音像の一つで、酒井水産の当時の社長が五重塔を建てた際に、東浜に移設したものだ。永明院五重塔は、高さ21.79メートルもある大きな塔で、氷見にある社長の自宅敷地内に、ブリをはじめとした魚類と先祖代々の霊に感謝し、漁業の発展を祈るために建立された。

酒井水産の永明院五重塔
酒井水産の永明院五重塔

三重県の志摩から熊野灘沿岸にかけてもブリの碑が見られる。この地域では、1898(明治31)年に紀北町の島勝浦で日高式大敷網が導入され、翌年に尾鷲市の九木浦にブリ大敷網ができて以降、大敷網が普及した。志摩半島の片田には、昭和27年創業の片田定置漁協が1968(昭和43)年に建てた「鰤其ノ他魚族之霊位」の石碑が漁協駐車場脇にあり、鰤その他の魚族の供養と報恩感謝をしているという。南伊勢町贄浦にえうらの八柱神社には「鰤大漁紀念碑」がある。明治32年創業のブリ大敷網漁業が、1943(昭和18)年に富山県氷見の辻本義太郎氏を招聘して改良落し網を敷設すると、未曾有の漁獲を得たので、翌年に大漁を記念して建立したものだ。紀勢町錦の錦神社にあるブリの「大漁記念碑」は、昭和10年、昭和11年のブリの大漁を記念して、錦の大敷網組合や漁協関係者が1937(昭和12)年9月に建立した。

片田定置漁協の「鰤其ノ他魚族之霊位」
片田定置漁協の「鰤其ノ他魚族之霊位」

ブリの養殖(ハマチ養殖)は、1930(昭和5)年に野網和三郎が香川県引田町安戸の養魚池で開始したことから始まる。野網和三郎は、安戸池のそばに1956(昭和31)年にハマチ供養のために「魚鱗供養塔」を建て、引田漁協もハマチ供養をしてきたという。

ハマチ養殖は戦時中に中断するが、戦後、昭和24~26年に瀬戸内海を中心に復活し、昭和35年以降は各地に普及するようになる。宇和島市や西予市周辺では1961(昭和36)年頃からハマチ養殖が始まる。宇和島の津島町北灘には、北灘漁協が1982(昭和57)年に建立した「鰤珠観世音菩薩」が恵比須鼻にあり、4月に供養と安全祈願を行なっているという。

宇和島市津島町の北灘漁協の「鰤珠観世音菩薩」
宇和島市津島町の北灘漁協の「鰤珠観世音菩薩」

各地のブリの碑を見ると、ブリの群れに寄せる人々の想いがうかがえる。

2023年2月現在「石川県漁業協同組合ななか支所」「愛媛県漁業協同組合北灘支所」。この他、文章の一部について補足修正をしています。

連載 第6回 へ続く

プロフィール

田口 理恵(たぐち りえ)

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。国立民族学博物館・地域研究企画交流センターCOE研究員の後、東京大学東洋文化研究所、総合地球環境学研究所を経て、2005年より東海大学海洋学部海洋文明学科准教授。2014年逝去。
著書『水の器-手のひらから地球まで』(共編著、人間文化研究機構)『ものづくりの人類学-インドネシア・スンバ島の布織る村の生活誌』(単著、風響社)「魚類への供養に関する研究」(共著、『東海大学海洋研究所研究報告』第32号)「もてなしと関わりのなかの水-スンバ島とラオスにおける飲み水の位置」(『人と水-水と生活』、勉誠出版)