三重県の南伊勢町奈屋浦、大紀町の錦浦、海山町の島勝浦と矢口浦、尾鷲市の須賀利浦、熊野市の甫母浦と、熊野灘に面した浦々にはマグロの石碑がある。これらの石碑から、熊野灘沿岸では、1820年代末から約100年の間に、時折、マグロの大群が浦の湾奥までやってきたことがわかる。
例えば、奈屋浦の場合、年号が慶応になると社会不安と凶作で物価が暴騰し、浦人は飢餓に追い込まれていくが、1867(慶応3)年冬にマグロの大群が押し寄せ、3000尾、6000両あまりの収益を得た。マグロの大漁で貧困から解放された浦人は、マグロに感謝し、マグロの群霊の冥福を祈るために照泉寺境内に「支毘大明神」と刻んだ石塔を建てた。1880(明治13)年にもマグロの大漁に恵まれ、2300尾、18000円を得た浦人は、再び「支毘大明神」の石塔を建てている。
島勝浦では、1829(文政12)年にマグロやカツオ、エビ、サンマが豊漁となり、翌年の天保元年も豊漁が続いたので、感謝した浦人は1831(天保2)年に法華塔を建てた。さらに1832(天保3)年冬から翌年3月にかけてマグロの大群が押し寄せ、20000尾、2000両の大豊漁に恵まれた浦人は砥水観音堂を建てたという。
須賀利浦の場合、天保になると不漁が続き、浦人は死活の瀬戸際に立たされるようになるが、1839(天保10)年の正月からマグロの群れが姿を見せるようになり、マグロ3795尾を得て困窮から脱することができた。さらに翌年になると、7月にカツオの大漁を得た上、12月にはマグロの大群がやってきて、30900尾、5200両の収益を得た。浦人は、マグロの恩に感謝するために、天保12(1841)年に法華塔を普済寺に建立し、盛大にマグロの供養をしたという。
1854(安政元)年の大津波で甚大な被害を受けた甫母浦の人々は失意のどん底に陥っていたが、1867(慶応3)年にマグロの大群が押し寄せた。8000両の収益をあげる大豊漁となったおかげで浦の復興が進み、1868(慶応4)年に浦人はマグロに感謝して海禅寺に法華塔を建立した。熊野灘沿岸の浦々にあるマグロの碑には、マグロの群がもたらす利益の大きさと、マグロに対する感謝の想いの深さが刻まれている。
東京の築地市場(当時)に関係するマグロの石碑もある。1954(昭和29)年3月1日、米国は極秘裏に中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で大気圏核実験を行った。それは広島型原爆の1000倍、15メガトンの水爆実験であった。ビキニ環礁から160キロの海域でマグロ漁をしていた第五福竜丸は、この実験で大気中や洋上に散った放射性物質“死の灰”を浴びた。焼津港に帰った第五福竜丸から荷揚げされたマグロの一部(約2トン)は、3月15日に東京築地の中央卸売市場に運ばれたが、放射能汚染していることが判明したため、セリは中断され、他の水産物も値つかずとなった。築地市場を大混乱に陥れた被爆マグロは、場内に埋葬廃棄されることになった。第五福竜丸と同じ海域で操業していた日本漁船856艘も被曝し、この年、全国で捨てられたマグロは457トンに及ぶ。
築地市場では、第五福竜丸の元乗組員大石又七さんが中心となって、マグロを埋めた場所にマグロの石碑が建てられる予定であった。石碑建立のために10円募金が行われ、子供を中心に約22000人から約300万円が集まったという。大切な海を放射能で汚染してはならないという気持ちが込められたマグロの石碑は、東京都による市場再整備計画のため第五福竜丸展示館(江東区)に暫定的に設置され、そのかわりに、築地市場正門そばの、マグロが埋められた場所に近い外壁にマグロ塚のプレートが設置された※。平和と反核のシンボルでもあるマグロの石碑は、いずれは築地に移設されることが願われている。
引用・参考文献
- 海の博物館資料室調査・平賀大蔵編纂 1994「三重県下の海の石碑・石塔(1)-大漁碑・魚介類供養塔-」『海と人間』vol.22:2-35。