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水産振興コラム
202212
おさかな供養のものがたり

第2回 サメとジンベエザメ

山西 秀明
(元東海大学)

日本人は太古よりさまざまな魚を食用などの資源として利用してきました。また、魚の命をいただくことへの感謝と鎮魂の念を示すため、供養碑の建立など弔いの慣習も育んできました。東海大学海洋学部の田口理恵先生(故人)を代表者とする研究者の方々は、全国各地にあるさまざまな魚の供養碑を詳細に調査され、2012年に『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』(東海大学出版部)を刊行されました。(一財)東京水産振興会は、出版記念として同年に「豊海おさかなミュージアム」で魚の供養碑に関する展示を行い、翌年2月に供養碑に関するシンポジウムを開催いたしました。本書は現在入手が困難ですが、漁業や漁村を理解していただける大変貴重な内容ですので、この度、東海大学出版部などのご承諾を得て、本連載を企画いたしました。ご承諾をいただきました皆様にあらためて感謝申しあげます。

一部の大型のサメは人を襲うこともあり、サメは、一般的には恐れられている存在である。しかし、全ての種が獰猛で人を襲う訳ではなく、ジンベエザメのようなプランクトン食のものや、ネコザメのように貝や甲殻類など底生動物を好むものも多い。むしろ、人を食べたサメよりも、人に食べられたサメの方が圧倒的に多いだろう。

サメを使った料理といえば、中華料理のフカヒレが最も有名だろう。フカ(鱶)はサメ(鮫)と同義語で、広くサメ類を指している。魚類学的に言えば、サメはエイと同じ軟骨魚類と呼ばれ、骨格は軟骨、ヒレは皮膚に覆われ、ウキブクロを持たず、繁殖は卵生または胎生による。一般的には、軟骨魚類のうち、鰓孔が体の側面に開くものをサメ、腹面に開くものをエイと呼ぶ。フカとサメの区別となると実は曖昧で、地域によって分け方が異なっており、大きさによって呼び分ける地域もある。中には深い所にいるのがフカで、浅い所にいるのがサメとする説もある。また、『古事記』や『風土記』になると、サメは鰐、和邇(ワニ)と記されている。標準和名にも○○ザメ、○○ブカ、○○ワニのように、サメ、フカ、ワニの3種ともが登場する。一方、チョウザメやコバンザメのようにサメではないのにサメと名付けられた種もあるので注意が必要だ。

さて、サメが獲れる地域では身も食用とし、刺身や湯引き、焼いたり煮たり練り物にしたりと様々な食べ方をする。よくサメやエイはアンモニア臭いと言われるが、これは筋肉中に尿素やトリメチルアミンオキシドが蓄えられており、腐敗の過程でアンモニアやトリメチルアミン(魚の腐敗臭)が生じるからである。種によっては新鮮なものは臭くないが、少し古い方が旨いとする意見もあるようだ。

これまでの調査でサメに関する供養碑は、全国に7ヵ所あることが確認できた。うち4ヶ所がサメに関わるもので、3ヵ所はジンベエザメを祀ったものとなる。ジンベエザメの供養碑では、宮城県気仙沼市横沼のものは、寄り付いたジンベエザメを食べ、その残骸をアンバ様のそばに葬ったものとなる。茨城県北茨城市平潟では、網主がジンベエザメを食べたところ不漁になったので祀ったという。静岡県沼津市内浦の住本寺の墓地にも「戎鮫ノ墓」と記銘された供養碑がある。これは中乃島水族館(現、伊豆三津シーパラダイス)が1934(昭和9)年に建てたもので、コンクリート製の円筒形の碑の内部にはジンベエザメの遺骨が納められているという。同水族館は、地元の網にかかった全長6~7mのジンベエザメを受け入れ、入り江を網で仕切る形で飼育した。飼育期間は僅か4ヶ月であったが、それだけの期間ジンベエザメを飼育・展示したのは世界ではじめてだろうと言われている。「戎鮫ノ墓」も当初は水族館敷地内にあったが、水族館施設の改築を機会に、住本寺に移された。1986(昭和61)年にはその隣に「飼育動物供養塔」が建立され、お彼岸の日には、水族館関係者によって供養祭が行われているという。

戎鮫ノ墓(左),飼育動物供養塔(右)
戎鮫ノ墓(左),飼育動物供養塔(右)
鱶供養塔
鱶供養塔

ジンベエザメは魚の中で最も大きくなると言われ、成魚では10mに達する。本種は動物プランクトンを主食とするため、同様にプランクトンを餌とする小魚、それを狙うカツオやマグロの群れと共に確認される事もある。そのため、海鳥や流木とともにカツオ漁場の指標とされ、福(大漁)をもたらすことから戎鮫(エビスザメ)とも呼ばれている。そのため国内では食用としての利用は少ない。なお、標準和名としてエビスザメの名称が充てられている種がいるが、こちらはカグラザメ目カグラザメ科であり、ジンベエザメはテンジクザメ目ジンベエザメ科と遠縁である。

ジンベエザメの供養碑はどれも1匹のために建てられたのに対し、サメの供養碑は、祀られた対象が複数個体であるということができる。サメに関わる供養碑の場合、北海道幌泉郡えりも町、新潟県粟生島、愛媛県伊予市双海町下灘のものは、サメ漁に関わるものとなる。また山口県大島郡東和町本浦にある鮫地蔵は、溺れた女性を地蔵さまがサメの姿になって助けたという伝説と結びついている。同地のサメの伝説には、溺れたのが男性とする類話や、船で移動中に商人の娘が、大きなサメに魅入られ、「命を助けて下さるのなら、孫子の末まで代々で地蔵様を刻んで献納しますから…」と祈ったところ助かったので、サメとの約束通りに地蔵さまを寄進したという説話もある。こうしたサメの伝説をもとに人々が寄進した鮫地蔵が、今も5体並んでいるという。島根県大田市の場合、供養碑は無いが、代々伝統的なワニ漁を続けていた漁師が供養を行っているともいう。毎年ワニ漁の最初の日に氏神に参拝して神酒をあげ、お寺で供養塔婆を書いてもらい海中に投供し、サメの霊を鎮祭していた。

サメ漁で捕獲したサメ(フカ)を祀った愛媛県伊予市双海町下灘の「鱶供養塔」には、次のような碑文が刻まれている。

「昭和二四年の春 一攫千金夢をもち血湧き肉踊る勇猛果敢な先人は銛を持ちて1頭数百貫余の鱶四十数頭を射止め暗き戦後の古里に一すじの光明をなげかけた。ここに当時をしのんで鱶の供養塔を建立して漁業の繁栄と海上の安全を祈念する」

戦後の食糧難に見舞われていた当時、下灘沖にフカの群れが現れたという。漁師達はフカを恐れて逃げ戻ったが、一番大きな船を持っていた漁師が特注の銛で突きに行った。大きいものでは700貫(2625kg)もあったそうで、地元の小学生が見学に来たりした。突いたフカは最初肥料として売っていたが余り儲けにはならなかった。しかし、肝臓から取った食用油や干し身が良く売れ、松山からも買い付けに来たという。こうして5年ほどはいい思いをしたそうだが、双海町でフカが獲れたのはこの時だけであったという。

昭和24年に建立された「鱶供養塔」の碑文に記されているように、戦後の貧しい時にサメが獲れたことと、勇敢に巨大なサメに立ち向かう様は、人々にとって大きな励みになったのではないだろうか。

引用・参考文献

連載 第3回 へ続く

プロフィール

山西 秀明(やまにし ひであき)

東海大学大学院地球環境科学研究科同専攻、博士課程満期退学。すさみ町立エビとカニの水族館の研究員を経て、ヒロメラボを設立。ヒロメの種苗生産と普及に取り組む。
論文「静岡県内浦湾南岸域における褐藻ヒロメの分布と季節的消長」日本水産学会誌