おさかな供養調査のはじまり
日本人は、生きものはもちろん、道具や人形といった非生物に至るまで、ありとあらゆるものを「供養」してきた。そして、その供養の気持ちを、供養碑という形にして身の回りに据えてきた。田口理恵先生(東海大学海洋学部)は、多くの供養の中で、特に水域の生物に関する「おさかな供養」に注目し、アンケートや先行研究からの供養情報のリスト化、海外における生きもの供養と日本の生きもの供養の比較研究、近代における魚の供養から読み取れる水産資源と人との関わりに関する考察などを行ってきた。私自身は、あちこちの漁村を回る中で、もちろんそういった供養碑が集落内や漁港の中に鎮座しているのを時たま目にはしていたが、「おさかな供養」について当初はそれ程関心を持っていなかった。しかし、東海大学に赴任する半年ほど前に、田口先生から「おさかな供養碑めぐりをしようよ!」と、声をかけていただいて、初めて「おさかな供養」を意識するようになったのである。
「おさかな供養」の調査研究は、2009年度からの3年間、田口理恵先生、加藤登先生(東海大学海洋学部)と私の三人で共同研究「魚霊供養から見る海洋資源の利用と変化—魚霊供養碑データベースの構築—」(文科省科研費挑戦的萌芽研究)を行ったのが、始まりである。2012年度からは「アジアにおける生きものがたり—生き物の生死をめぐる文化的対応に関する比較研究」(文科省科研費基盤研究B)として、新たな研究者も加わっての活動となった。2009年からの5年半の間に、田口先生や他のメンバーと回った場所は、北から秋田県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、富山県、石川県、静岡県、愛知県、三重県、京都府、島根県、広島県、山口県、愛媛県、佐賀県、長崎県、大分県、そしてインドネシアが挙げられる。クジラ、フグ、ウナギ、ナマコなどの供養祭に参列したり、たくさんの供養碑を観たりするうちに、私は、それぞれの供養碑の背景にある地域や人と生きもののものがたりに、いつしか強く惹かれるようになっていった。
「おさかな供養碑」への尽きない興味
2009年から行った「おさかな供養」の調査では、全国に1300を超える供養碑(石碑以外の祠や位牌など、後に残ることを意図して作られた人工物を含む【田口:2013】)が存在することが分かった。そして、年代が分かっている供養碑のうち、半数近くは戦後に作られたものであり、平成に入って作られたものも全体の1割以上あることも分かってきた【田口:2011】。つまり、供養碑は過去の遺物ではなく、現代社会の中で新たに作り続けられているものなのである。
しかし、時代と共に供養に込める思いにも変化が生じている。その一つの例が、石川県のナマコ供養である。日本海沿岸の有数なナマコ産地である石川県七尾市では、能登なまこ加工協同組合の主催で2010年より「なまこ供養大漁祈願祭」が行われている。2012年には「全国なまこサミット」と改称され、ナマコ研究者らによる講演やパネルディスカッション、ナマコを使った創作料理の試食や商品開発された品々のお披露目、石崎漁港でのナマコ供養祭、地元の子供たちによるナマコの放流といった内容で2日間にわたるイベントが行われた。2014年3月、私たちは「全国なまこサミット2013」に参加した。ナマコの産地としては先輩格にあたる青森県から、市の職員や弘前大学ナマコ研究センターの研究者が招かれて、流通や食としての効能といった視点からの講演があった。ナマコを使った創作メニューの試食と、ナマコの消費拡大をテーマとする食談会では、工夫を凝らした何種類ものナマコ料理に舌鼓を打ちつつ、自由な意見が交わされた。翌日は石崎漁港の荷捌き施設で、かなり本格的な供養祭が執り行われ、その後地元の子供たちによるナマコの放流が実施された。青森県からはもう一人、ナマコのPRキャラクターであるナマポンという着ぐるみのゆるキャラも参加しており、シンポジウムの会場や放流などに参加し注目を集めていた。七尾市のナマコ供養祭は、もちろんナマコを供養する目的があるのだが、それだけでなく、地元のPRやナマコを核とした情報発信、供養祭を含む一連のイベントによる誘客といった意図が強く感じられた。
地域のものがたりを紡ぐ
神奈川県の川崎大師境内にある海苔養殖に関する2基の碑は、私にとって最も印象深い供養碑の一つである。一つは供養碑ではないが、1920年に建立された「海苔養殖紀功之碑」という記念碑で、その碑文には、1871年にたった4人の村人によって始められた海苔養殖が、明治の漁業法制定時には数百軒の漁家が従事する、地域の一大産業へと発展した経緯が記されている。この碑と隣り合わせで建っている「海苔供養祭文碑」は、1986年に建立された供養碑で、「海苔の精を招魂して川崎漁業協同組合主催のもと至心に海苔供養祭を厳修す」と刻まれている。碑文には、最盛期には500人をこえる組合員を擁した海苔養殖が、高度経済成長期の東京湾の大規模な埋め立て工事によって、1971年には漁業権を放棄せざるを得なくなってしまったという経緯が記され、それは時代の趨勢として致し方ないというものの、100年続いた海苔養殖業の幕を閉じることへの漁業者たちの無念がひしひしと伝わってくる。このように、それぞれの地域の漁業や暮らしの記憶を記録し、後世に伝えていこうという意思を持つ供養碑もある。現在、日本各地で水産資源の減少が懸念されている。もちろんその原因は人為的なものだけでなく、人の力の及ばない自然の変化によるところも大きいだろう。いずれにしても、かつてこの海で豊かに育まれていた、今は亡き多くの命に感謝をささげる、などという供養碑が建てられる日が来ないことを切に願う。
おさかな供養調査のこれから
「おさかな供養碑めぐりをしようよ!」と声をかけてくださった田口先生は、研究を開始して5年半で急逝された。そしてそれから1年もたたぬうちに、最初のメンバーとして参加されていた加藤先生も帰らぬ人となってしまった。供養関連の調査研究は、あのころ一緒に供養碑をめぐったメンバーを含む幾人もの研究者たちが、それぞれのフィールドで成果を出している。しかし私個人としては、断片的な調査を行っているに過ぎず、田口先生の供養が全くできていないという忸怩たる思いにかられている。せめて、田口先生が紡いでこられたおさかな供養のものがたりを、改めて伝えることができればと考え、今回、田口先生のおさかな供養のエッセイを連載するという(一財)東京水産振興会さんの企画に賛同し、冒頭のメッセージを担当させていただいた。
それでは、おさかな供養のものがたりのはじまりです。
引用・参考文献
- 田口理恵・関いずみ・加藤登、2011、「魚類への供養に関する研究」、東海大学海洋研究所研究報告第32巻、pp53-97
- 田口理恵編著、2012、『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』、東海大学出版部
- 田口理恵、2013、「魚の弔い—近代水産業の発展と魚介類の供養」、『小さな小さな生きものがたり 日本的生命観と神性』、昭和堂、pp74-105
- 関いずみ、2014、「生きもの供養の多様な意味づけ—全国の供養碑から見えてきたこと—」、東海大学海洋学部「海—自然と文化」第12巻第3号、pp13-26