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水産振興コラム
20246
おさかな千一夜

第2夜 ヤガラ〜戦争と革命とトランペット(中編)

遠藤 成
編集者・ライター
写真提供/フーズリンク

産業革命とトランペット

18世紀後半、音楽史でいえば古典派の時代に起きたのが産業革命です。工業化が進むとともに富裕層の厚みも増していきました。

富裕層の間で楽器を習うブームが起きると、没落した貴族にリストラされた音楽家は市民に楽器を教えるようになり、楽譜の出版でも稼ぐようになりました。

機械の発達により楽器も進化し、音量も音域もスケールアップしました。

金管楽器では穴を開閉させることで、それまで出せなかった音が出せる有鍵トランペット(キー・トランペット)ができると、1814年にはバルブシステムが発明され、1839年には現代とほぼ同じ3本のピストンを駆使して演奏するトランペットが登場します。

これは産業革命の代名詞ともいえる蒸気機関のために開発されたピストンとシリンダーを応用したものでした。

ちなみに …… というか本題のトランペットフィッシュ=ヤガラですが、フランスの博物学者ベルナール・ジェルマン・ド・ラセペード(1756〜1825)がアカヤガラを初めて図鑑に掲載し、Fistularia petimba という学名がついたのが1803年ですから、ちょうどこの頃、ナポレオンの時代です。

ベルリオーズ(1803〜1869)の『幻想交響曲メンデルスゾーン(1809〜1847)の『夏の夜の夢ワーグナー(1813〜1883)の『タンホイザーヴェルディ(1813〜1901)の『アイーダスッペ(1819〜1895)の『軽騎兵序曲……

クラシック音楽の最盛期といえるロマン派の音楽家たちは、飛躍的に表現力が向上したトランペットを前面に出し、高らかな音色が印象的な名曲を続々と生み出したのです。

革命・戦争と音楽家たち

市民の権利意識、民族意識が台頭し、封建社会から近代統一国家へと大きく揺れた18世紀〜19世紀のヨーロッパは激動の時代でした。

スペイン継承戦争(1701〜1714)で125万人、七年戦争(1756〜1763)で136万人、フランス革命〜ナポレオン戦争(1789〜1815)で490万人、クリミア戦争(1853〜1856)では77万人と大勢の人が亡くなりました。

ナポレオン最後の戦いとなった『ワーテルローの戦い』ウィリアム・サドラー画

この時代に生きた音楽家たちは革命や戦争を主題にした作品を残しています。

ハイドン(1732〜1809)はナポレオン軍に侵略された祖国のために『神よ、皇帝フランツを守り給え(現ドイツ国歌)を作曲し、ベートーヴェンは『ウェリントンの勝利『戦争交響曲)でイングランド軍がナポレオン軍を破る戦いを実況中継のように描き、ベルリオーズは1830年の七月革命の犠牲者のために『レクイエム』を書き、ショパン(1810〜1849)は故郷ポーランドの革命がロシア軍に圧殺されたことに憤り『革命のエチュード』を作曲し、ロシアのチャイコフスキー(1840~1893)はナポレオン軍を撃退した祖国戦争を讃える『1812年』の曲中で大砲をぶっ放します。

譜面に向かってペンを走らせていただけではありません。

スメタナ(1824〜1884)はプラハの民主化運動を鎮圧しようとするオーストリア軍との市街戦に参戦。ワーグナーはドレスデン蜂起で政府軍を相手に大暴れし、指名手配を受けて亡命。1861年にイタリアに統一国家が誕生すると、ヴェルディは立候補して国会議員に当選 ……

政治とは無縁そうな音楽家たちも動乱の時代を戦っていたのです。

ジャズの花形トランペット

エリート文化としてのクラシック音楽の中心を担ったのが貴族と富裕層の市民だったのに対し、労働者階級が親しんだのが民俗音楽や歌曲から変化したポピュラー音楽です。

19世紀半ば、新大陸アメリカのなかでもひときわ人種・文化のるつぼだったニューオリンズ(フランスの軍港)で西洋音楽とアフリカ音楽が融合し、新しい音楽が芽吹きました。

ジャズの誕生です。

譜面通りに演奏する白人ミュージシャンと違い、耳で覚え独特のリズムとフィーリングで演奏する黒人ミュージシャンの音楽に多くの人が魅了されていきました。

ジャズの花形楽器といえばやはりトランペットです。

しかしこの時代、アメリカの黒人はまだ貧しい奴隷だったはず。それなのになぜ楽器を手に入れることができたのでしょうか。

ここにも戦争が関係しています。

1861年に反奴隷制を掲げる共和党のリンカーンが合衆国大統領に就任すると、ニューオリンズのあるルイジアナ州など南部の州が分離独立を宣言。アメリカを二分する南北戦争が勃発しました。

当時の戦術は歩兵が隊列を組んで行軍し、敵に近づくと一斉射撃を繰り返し、味方が撃たれても敵の砲弾が炸裂しても前進を続け、どちらかが潰走するまで撃ち合う肉弾戦、いわゆる「戦列歩兵」が中心でした。

そのため軍隊を規律正しく動かし、兵士に命令を伝える鼓笛隊とトランペットの親戚の信号ラッパ(ビューグル)は戦場に欠かせない存在でした。

戦場では日本人にも馴染みのある『リパブリック讃歌』(おたまじゃくしはカエルの子♪)、『Yankee Doodle』(アルプス一万尺♪)、『ジョージア行進曲』(「ドリフのバイのバイのバイ」原曲)などの曲が演奏され兵士を鼓舞しました。

4年に渡る戦いで南北両軍合わせて50万人、民間人を含めると70~90万人に上る死者を出した凄惨な内戦が終わると、黒人奴隷の解放が進むとともに、軍楽隊の楽器が大量に払い下げとなりました。

そのためトランペット、コルネット、トロンボーンなどの楽器が市場にあふれ安価となり、貧しい黒人でも入手することできたのです。

サムライと西洋音楽

日本と西洋音楽の本格的な出会いもこの頃です。

南北戦争の起きる10年ほど前にペリー提督率いる黒船が来航しましたが、『ペリー艦隊日本遠征記』には軍楽隊が儀式を音楽で盛り上げたと記されています。

アメリカの最新ポップカルチャーを紹介するぜ!という意気込みがあったのでしょうか、軍楽隊2組に鼓笛隊1組と3組もあり、軍楽隊の編成はトランペットほか最新の金管楽器が主体でした。

無名の日本人絵師によって描かれたペリー提督の日本上陸の図。
(ブラウン大学図書館)

ポーハタン号で開かれた饗宴にこんな記述があります。

《宴会ののち、日本人は黒人音楽ショーを楽しんだ。このショーを催した水兵たちは、顔を黒く塗って、派手な衣装で登場し、おもしろおかしく役柄を演じたので》《厳粛でむっつりした林でさえ、この珍妙な見世物には抗しきれず、道化た狂言や滑稽な演技が巻き起こす爆笑の渦に、同僚たちと一緒に加わった。》(『ペリー艦隊日本遠征記』)

幕府の交渉担当=昌平坂学問所の塾頭・林大学頭のこと。

「黒人音楽ショー」というのは白人が顔を黒塗りにして歌って踊る当時アメリカで大人気だったミンストレル・ショーのことで、このミンストレル・ショーとヨーロッパから伝わったオペレッタがミックスして「ミュージカル」が誕生したともいわれています。

ミンストレル・ショーに曲を提供して数々の大ヒットを生んだのがアメリカ音楽の父=フォスター(1826〜1864)です。日米交歓会のプログラムでも『主人は冷たい土の中(静かに眠れ)』『草競馬』など彼の作品も披露されました。

フォスター自身はクラシックの器楽曲をほとんど作曲していないが、
ドヴォルザークなどクラシック音楽の作曲家に影響を与えた。

それにしてもタフネゴシエーターと恐れられた林大学頭がアメリカのショウビズの原点を鑑賞して相好を崩したというのは微笑ましいですね。

西洋音楽のインパクトは鮮烈だったようで、ポルカに合わせて踊り出す武士もいれば、翌日には演奏された曲を口ずさみながら歩くサムライもいたといいます。

かといって、誰もが西洋音楽に魅了されたというわけではなく、後に「西洋かぶれめ!」と河上彦斎に暗殺された開国派の佐久間象山などは《唯々不可聞(ただただきくべからざる)ものは音楽に御座候》とまったく受け付けませんでした。

いえ、むしろ、違和感や嫌悪感を抱くほうが普通の反応でした。よく「音楽は国境なき言語」とよく言われますが、おそらくそれは幻想でしょう。

連載 第3夜 へ続く

プロフィール

遠藤 成(えんどう せい)

◆◆◆

神奈川県出身。2009年に出版社を退職後、ヨットで日本を一周。全国の漁港に寄港するうちに、漁業の多様さに興味を持ち、水産関連の記事を手掛けるようになる。(一財) 東京水産振興会が運営する「豊海おさかなミュージアム」においては、特別企画展の展示資料(パネル・解説ノート)の制作なども担当している。趣味は世界各国の魚図鑑の収集。