水産振興ONLINE
水産振興コラム
202412
進む温暖化と水産業

第34回 
ルポ つながり、未来へ歩む(北海道・網走㊥) 
網走川流域の会

中島 雅樹
株式会社水産経済新聞社

漁業と農業は犬猿じゃない
生産者同士、心は通じる

ここの野菜塩ラーメンは絶品です——。網走川の最上流に位置する津別町のレストラン「つべつ西洋軒」で、JAつべつ農協とJF網走漁協のメンバーが向かい合わせで人気のラーメンをすする。テーブルではたわいのない世間話に花が咲き、笑い声が絶えない。端からみれば、仲のいい同僚に思えるほど穏やかな空間を醸し出している。

漁業関係者が河川上流の状況に危機感を感じたのは、2001年の台風の襲来だった。大雨による洪水で網走川上流の農地が崩落、下流の網走湖が土砂で真っ赤に染まった。赤い網走湖を目のあたりにした新谷哲也組合長は「このままでは漁業を守れない」と上流の農業者と話し合う覚悟を決めた。翌年には、網走市を事務局に網走漁協や内水面のJF西網走漁協などが参加する「網走市河川等漁場環境保全対策協議会」が発足した。

土砂で真っ赤に染まった網走湖。漁業と農業が危機感を共有するきっかけになった

ただ、水と油、犬猿の仲といわれる漁業者と農業者の間の話し合いはいうほど簡単ではない。JAつべつの岡本幸年常務も「最初、漁協から『話したいことがある』と打診があって。そりゃもう、『漁師さんがなぜ農業者のところに来るんだ!』って緊張感が走りましたよ。何の文句だろうかって、ね」と当時の様子を語る。

「漁業者が乗り込んで来るということで、ビリビリした緊張感が走りましたよ」
と笑いながら当時を振り返る岡本常務

それでも新谷組合長は諦めず、煙たがる農業側と地道に会合を重ねた。すると次第に心が通じ合ってくる。時に一献傾けながらお互いから本音が出るようになっていった。

「そうだよな。お互いが一緒になって川をきれいにしないとなあ」

漁業者のねばり強い働き掛けが実を結び、農業者と漁業者の壁は消え、共感が生まれていく。07年には、元北海道開発局の染井潤一郎氏の発案で漁業と農業が連携し河川環境の保全に取り組み、産品のブランド化を図る「サーモンアクションプラン」が策定され、農漁業者の気持ちを後押しした。

当時、漁業者が環境への危機感を募らせる一方で、JAつべつの農業者も将来の生き残りを模索していた。

09年、JAつべつの山下邦昭組合長(当時)が突然、ホームページで「私たちはエコということで地球環境を皆で支える時代になりました。農業は自然相手の産業です。津別農業も従来の農法から脱却し『土を生かす』ことにより産地を守り、消費者に安心して食べていただく」と、“有機農業の町” への転換を宣言した。化学肥料や農薬を使うことで土が固くなり、保水力が弱まり、結果的に海まで、泥水が流れてしまう悪循環を断つ宣言になった。

「網走川流域の会」発足

以後、連携は加速する。09年からは農業・漁業連携によるフォーラムが開催され、10年には次の世代に山と川と海のつながりを引き継ぐ「網走川流域での農業と漁業の持続的発展に向けた共同宣言」が採択された。翌11年には、現在の「網走川流域の会」(15年設立)の前身となる協議会が設置され、農業と漁業の連携した取り組み母体ができた。

市民を巻き込み、農業者や漁業者が直接交流する取り組みも活発化する。若い農漁業の青年部や子供たちの交流も活発になり、ゴミ掃除や一緒に船に乗り込んでの水質調査なども実施した。活動状況を機関紙などで頻繁に発信し、共感の和も広げた。学者や研究者ら専門家によるシンポジウムなどを開催することで、思いだけでない科学的な根拠にもこだわった。農地崩落という農業の災害があれば農業の要請活動に漁業者も同行した。“犬猿の仲” と目されていた農業者と漁業者が連携した要請に行政も異例のスピードで対策を講じる成果につながった。

網走川流域の会のメンバーである農業と漁業の関係者がいっしょになって植樹活動。
こうしたさまざまな連携の取り組み連綿と続いている(網走漁協提供)

有機農業の町へ挑戦

「有機農業の町」を宣言した津別町の農業の中にも戦いがあった。宣言はしたものの当時はまだ有機農業に対する認識は低い。マニュアルもない。当時は宣言を「単なる理想論」と考える農業者が大半だった。

そんな町の空気の中で、今年78歳を迎える酪農家の山田照夫さん(津別町有機酪農研究会の顧問)が有機の酪農にチャレンジした。ちょうど明治乳業から「有機で牛乳の生産はできないか」との打診もきていた。山田さんも「今のままでは駄目だ」と感じていた矢先。「これだ」と決断した。

しかし、周りの理解と協力を得るのは容易ではない。家族からも責められ、周りからは変わり者と冷ややかに見られた。

「何を言われても諦めなかったですね。それはもう意地ですね」と山田さんは笑いながら話すが、山田さんが日本初のJAS有機認証を牛乳で取得するまで5年の歳月がかかった。今も有機の牛乳はすべて明治乳業が通常価格にプレミア価格を上乗せし、ほぼ通常の倍の価格で買い取っている。現在、山田さんの牛乳は「明治オーガニック牛乳」の名前でパック販売されているが、パックにされるのは出荷量の3分の1。残る3分の2は普通の牛乳の加工に回っているといい、それでも生産者の努力を評価し買い支える明治乳業に、山田さんは「感謝しかない。だから続けられる」と話す。

「どうですか?有機で育てられた牛は臭いもなく、きれいなんです」と話す山田さん。
有機農業ともに漁業との連携も推進役を担っている。

津別町で環境にやさしいタマネギの循環農業などに取り組む68歳の矢作芳信さんも漁業者の思いを理解する。

「漁業で飯を食べている人がいる。そんな漁業が農業のせいで操業ができなくなっていいのか。おいしい網走湖のシジミも食べられなくなる。河川改修も自分たちだけがいい治水じゃ駄目。世の中全体が環境に配慮しないといけない」と真剣に話す。

「もう環境問題を無視できる社会じゃない。特に中山間地で約9割が山林という津別町の面積では生産規模で勝負ができない」とも話し、今では環境に配慮した農業が津別の生き残る道だという認識に広がりを感じるという。

山田さんも矢作さんも「やっぱり日本中の第一次産業の人たちが仲よくやらないと、世の中はよくならないし、国民の心も豊かにならない。第一次産業が元気に経営できるようになることは日本にとっても必ずいい影響をもたらす」と口を揃えた。

連載 第35回 つながり、未来へ歩む(北海道・網走㊦) へつづく

プロフィール

中島 雅樹(なかしま まさき)

中島 雅樹

1964年生まれ。87年三重大卒後、水産経済新聞社入社。編集局に勤務し、東北支局長などを経て、2012年から編集局長、21年から執行役員編集局長。