「85点の魚」で挑む経営
福井県との県境に位置する石川・加賀市。午前3時の橋立漁港には、第八金城丸(18トン)のライトだけがともっている。
「おはようございます」。三々五々集まってきた乗組員が氷やダンベ(タンク)を積み込み始めること15分。あっという間に準備を済ませ、船は沖に向かった。
金城丸は加賀市沖で定置網3か統を営む (有)金城水産の作業船。率いるのは船主船頭の窪川敏治社長(43) だ。日本海特有のシケの厳しい12月から翌2月末以外、年間を通して操業する。この時期は、40センチ程度のブリの幼魚フクラギや、近年、主力魚種になっているサゴシ(小型のサワラ)が中心の漁になる。
最初の網に到着したのは出港から約15分後。エンジン音がやむと同時に海面を照らしたライトで浮き玉が星空のように浮かび上がった。最初の水揚げは、ブリの習性を考慮したブリ専用の「袖網」。前日に取り残したフクラギを揚げるためだという。
「もう1回」「ちょっと上げて」。船上では、網の様子を見守る乗組員がクレーン担当に指示する声だけが響く。船長を含め8人いる乗組員の持ち場は固定されていないが、動きを止めている者もいない。言葉がなくとも全員がやるべきことを理解しているのがはた目からも分かる。
袖網の4トン程度のフクラギを揚げ終え、次の網ではフクラギ、サゴシ、大型のアジ、タイなどが姿を現した。手際よく水揚げされた魚は魚種ごとに氷タンクやダンベに振り分けられていく。
日によって水揚げ作業は時に昼近くまで続くこともあるという。ただ、この日は出港から約4時間で水揚げを終えた。
「きょう(橋立漁港から)出港したのはうちだけ。小型底びきや刺網の出港があればまだしも、まとまった水揚げがなければ仲買人も少ない。買い手が少ない中で多く揚げすぎても値崩れを起こすのは必至」と、漁を早めに切り上げた理由は明確だ。
当日の漁がみえ始めると窪川社長が船上作業をしながら、耳にかけた携帯電話のハンズフリーマイクを使い、仲買人と商談を始めた。その時間数分。数か所に連絡したようだが、帰港前には魚の売り先がすべて決まったという。待ちの漁業といわれる定置網だが、陸(需要)をにらんだ定置網漁の日々がそこにあった。
「シンプルさ」に面白み
船主船頭の窪川社長は東京生まれの東京育ち。東京大学を目指すも前期課程で受験に失敗。浪人ではなく国立大学への現役入学を優先し、「医者や弁護士など陸の仕事に就く同級生と全く違うフィールドにこそ活躍の場があるのでは」と後期日程の東京水産大学(現東京海洋大学)を選んだ。大学では資源解析を専攻。魚への思い入れの強い学生が多い中で、「常に冷静でいられる」のが専攻理由だった。卒業後に最初に選んだ就職先は中学受験の予備校講師。就職といっても在学中のアルバイトの延長で、モンスターペアレンツにひたすら謝罪するマネージャーまで勤めた経歴をもつ。
漁業の世界に入るきっかけは突然やってきた。塾のアルバイトで出会った妻の実家が偶然、漁家だった。高校時代から「いずれは1次か2次産業も経験したい」と自然相手の仕事に憧れもあり、塾講師とは真逆の世界だったが、12年勤めた塾講師を30歳で辞め漁業の世界に飛び込んだ。義理の父の定置網を継ぐ決断にも迷いはなかった。
石川・加賀に移住し飛び込んだ漁業の世界には、すぐなじんだ。水揚げが業績に直結する獲れば勝ちという「シンプルさ」に面白みさえ感じた。3~4年もすると、経営を含めたすべてを任された。社長に就任し最初に乗組員に伝えたのは、「85点の魚」の提供だった。
「最近は、神経〆など最大限の手を加え、100点満点の高付加価値の魚を目指す志向が強くなっている。しかし、一度に獲れる量が多いと、すべての魚を100点にすることは難しく、乗組員が疲弊してしまう。かといって、水揚げ後に甲板に魚を放置したぎりぎりの60点の魚では評価されない。一部の魚だけ100点であっても、80点や60点の魚が混ざると、結果として『60点の船』という評価となる」とし、選択したのが「グッチやルイ・ヴィトンではなく実用的なユニクロ」に当たる「85点の魚」だった。
85点の魚を目指すことで、それまで60点の魚を出していた現場を一気に変える必要があった。ただ、乗組員を口説くことや、やる気を求めることは一切しなかった。求めたのは、船で行われている仕事すべてを理解することと、水揚げ後にすぐに選別し魚種ごとに水氷に投入することの2点のみ。それでもこれまでと違うやり方に抵抗も出たが、古い考えの人は自然と去り、理解を示す若者だけが残った。
「仕掛け」で変わった現場
乗組員には1つだけ「仕掛け」を講じた。作業が一段落して乗組員が全員で朝食を取る場に、ポンと前日の伝票を置くことだった。「見てくれ」とも「見ろ」とも言わない。先代からは「(乗組員に魚の値段まで知らせるのは)やっちゃ駄目だ!」と強く言われてきたが、躊躇なく実行した。
しばらくすると、乗組員が、朝食のパンやおにぎりを頬張りながら、伝票を手に取るようになっていった。「あの魚、結構高く売れたんだ」と関心をもち始め、85点の魚の意味を乗組員が自然に身に付けていった。
漁師にとって、時に魚を買いたたく「敵」にもなる仲買人ともコミュニケーションを密にした。船上から漁の情報を提供し、仲買が必要とする量を85点の品質で用意し続けた。こびへつらうのとは違い、対等の関係ながら、「獲ってきてやったぞ」ではなく「買ってもらう」姿勢に自らが変えると、仲買人も「買ってやる」から「獲ってきてもらった」に変わった。今では、「漁、気を付けて」と声を掛けてくれる関係を築いている。
地元仲買人だけではなく売り先も広げた。売り先は福井県の中央卸売市場。地元仲買への優先的な販売を維持しながらも、地元だけでは手に余る量は福井の市場に連絡する。「地元仲買人とも福井の市場とも駆け引きは一切しない。ありのままの情報とできることを伝えるだけ」。地元仲買も、必要以上の魚がくれば、値を下げるしかない。魚価が乱高下することは仲買人も望んでいない。その姿勢で双方の信頼を勝ち取った。中でも「85点」の魚は重宝され、福井では魚が到着する時間に合わせてセリの時間を調整してくれる関係さえも構築した。漁師と買受人の双方が満足できるウィンウィンの関係が出来上がった。
国は本気の資源管理を
地球温暖化が、日本中の漁業を不安に陥れている。そのことについて窪川社長も、「海の変化、魚種の変化は感じる」と話す。ただ、「現時点で太平洋ほど深刻な状況ではない」といい、「寒流系の魚は影響を受けているようだが、われわれが対象とする暖流系の魚に関しては、獲れる時期や魚種は変わってきているが、減った実感はない」と率直に語る。
「大学で資源について学んでいた時は、魚は減る一方で資源管理の必要性を強く感じていた。しかし現場で実感するのは、まだ魚はいるということ。もちろん資源管理は重要で、新しい資源管理も理解はできるが、ただ、その変動の原因が温暖化か長期変動か、そのほかの要因か判断できない」と話し、大学で学ぶ資源管理と現場の実感の違いを語る。
今後の資源管理の進め方について国には、「情報を集める制度をつくるのはいいが、どんな情報をどう集めるか、システムも統一した仕組みづくりから取り組まなければ、なかなか前には進めないのではないか」と提案する。クロマグロの管理も「ただ、獲れたら逃がすだけでは資源解析のデータにならない。どれだけ入り、どれだけ放流したのかカウントしたデータでないと意味がない。本気で資源管理をしようとするならば、それをちゃんと現場に話して説得するべきだろう」と話す。
同一系群で日本以外の国も漁獲する資源についても、「水産庁はよく『日本が率先して範を示そう』と外国に先立ち資源管理を実施する必要性を訴えるが、日本だけ漁獲規制して逃がしてもほかの国が獲ってしまうのは誰でも分かる。その答えをちゃんと示していないのに『やれ』というのは乱暴に感じる。資源管理を否定するつもりは全くないが、どうやってその変化に付き合っていくかを国が明確に示すべきではないか」と話す。現場も資源管理も見つめるその目は常に冷静だ。
人と海と関わり大切に
「人相手」の塾講師から「自然相手」への転身だったが、「現場に出れば自然相手にできることは少ない。結局漁業も人相手だったですけどね」と笑う。温暖化時代の漁業についても、「影響ばかり気にしても仕方がない。今ある魚をどう提供していくかに知恵を絞り、定置網漁業を持続的にすることが重要」と割り切る。
資源解析で学んだスキルを生かし、現在は、学者である石村兄弟とも交流。兄の石村学志岩手大学准教授とは魚種選択制のない待ちの漁業である定置網の経営について、弟の石村豊穂京都大学准教授とはスルメイカ資源の耳石解析でサンプル提供するなど、科学の世界とも接点をもちながら、自然、そして海に関わる人との関わりを楽しんでいる。
定置網漁業に関するコラム:
定置漁業研究について 第1回