僕の原点となった水族館で ⑴
僕のこれまでの履歴は『水産振興』第507号に詳しく書いているが、その号を読まれていない方も多いと思い、前号となるべくだぶらないように自己紹介を。
おギャーと産まれて高校を卒業する18歳までは東京の下町、足立区の “千住” で過ごし、東海大学海洋学部に入学すると同時に学部のあった静岡県の沼津で大学生活を送る。さて千住といえば、江戸時代には日光街道、奥州街道の最初の宿場町で四大宿場町の一つとして栄えていたとされている。とはいえ埼玉県が目と鼻の先で荒川の土手には雑草が茂り、子どもの僕は、カナヘビやニホントカゲ、「オート」と呼ばれたトノサマバッタ捕りにいそしみ、東京にいながらも田舎の雰囲気に包まれていた。毎月、1日と15日、26日が縁日で、駅前の商店街の両脇には沢山の夜店が並んだ。綿あめやお好み焼き、古本売りに交じって、金魚すくい、ウナギのひっかけ釣り、オカヤドカリや金魚が売られ、さまざまな植木も並んでいた。この夜店も年と共に変化し、今は「ポイ」とか言ってプラスチック製で紙がはめ込まれている金魚すくいの網は、当時は針金で作られたものに紙が貼られていた。その後紙を張ったものではなく、最中の皮の片側を針金に刺したものに変わり、ポイへと変わっていった。昨今ルアーで使われる3本針で引っ掛けて釣るウナギ釣りは、ウナギが錦鯉の子どもへと替わり、それぞれを仕切る親父さんも、僕の子どもの頃には親父さんについてきた子供が仕切るようになり、縁日の露店でも世代の交代が行われた。
ちょっと道がそれてしまってすいませんが昭和40年代だったろうか、キャラメルの箱を送ると景品として当たる「アマゾンのミドリガメ」が子供たちの間で大ブームとなった。そのミドリガメが日本に大量に輸入されたのであろう、千住の夜店に「ミドリガメすくい」が出現した。すくう道具はポイではなく前出のモナカの皮。これは水に濡れるとすぐに腰がなくなり、針金から外れてしまう。時間との勝負の網素材なのである。真剣にミドリガメを狙う子どもに、親父さんから刺客が送られる。なんと25cmほどのメガネカイマンというワニの子どもだ。ミドリガメの泳ぐ容器には数匹の子ワニがいて、子どもがカメをすくいそうになると親父さんがさりげなくそのワニをその子の手元に送り出すのだ。びっくりした子どもは手元が狂い、最中の皮はあえなく針金から外れ勝負が終わってしまう。その子どもたち憧れの、ミドリガメことミシシッピーアカミミガメは今の時代では、子どもたちに飽きられ池や沼に放され日本の気候ともよく馴染み、もともと日本にいたイシガメなどの住処を奪っている。だが、その発端はキャラメルの景品から火が付いたんだよなぁ。とノスタルジーに耽っていないで話を進めます。
大学4年を静岡県で過ごした僕は、卒業と同時に新潟県村上市の瀬波温泉街のはずれにあった株式会社瀬波水族館に飼育係として就職した。瀬波水族館は昭和51年にボーリング場の後を改造して造られた水族館だ。ちょうど東京池袋のサンシャインビルに、サンシャイン国際水族館がオープンし水族館の人気が高まっていた頃である。オープンから2年後、屋外に水量1,100トンのイルカプールを増設し、その夏には鴨川シーワールドからバンドウイルカを呼び寄せイルカショーの出張公演を行った。それが大当たりし夏休み期間の集客増に喜んだ社長は、自前でイルカを飼育展示しようと考え瀬波水族館のイルカとして2頭を購入した。その飼育担当者を募集していたところ、大学時代に飼育実習をさせていただいた鴨川シーワールドのイルカ博士、故鳥羽山照夫館長から僕を推薦していただき晴れて水族館の飼育係に採用されたのだ。
しかし、水族館で魚類の飼育係になるのが夢だった僕は、イルカやアシカなど海獣類の飼育はしたこともなかったので、少し戸惑った。でも、瀬波水族館に赴任する1か月前から鴨川シーワールドでイルカの飼育実習をさせてもらい、なんとか面倒をみれるようにしてもらった。
そして、2頭のバンドウイルカと共に輸送のトラックで瀬波水族館に。
イルカと接してまだ1カ月程の新米飼育係が、なんと夜を徹しての輸送まで経験した。
イルカの輸送は大変で、魚のように水を入れた容器に勝手に泳がしたまま運ぶなんてことはできない。イルカは僕たちと同じ哺乳動物で体温も人間と同じぐらいの36〜7°Cある。そのため、水から揚げて時間が経つと自分の体温で皮膚がヤケドをしてしまう。そこで、FRP製のコンテナにスポンジのマットを敷き、その上に担架に載せたイルカを乗せ、体の1/3ほどが浸かるように海水を入れ、その海水をポンプで汲み上げ背中にシャワーのようにかけるのだ。また、頭のうえにある鼻(呼吸孔)で呼吸をするので、頭にはシャワーがかけられない。そこで頭部と水のかかりにくい背ビレなどにはワセリンなどを塗って乾燥を防止すると同時に、トラックの荷台には僕たちが付き添い、ひしゃくを使ってコンテナに溜まっている水をシャワーの当たっていない所にかけ続けるのだ。その他にも15〜30分毎に心拍数や肛門にセンサーを挿入し体温を計ったりもする。狭い荷台での作業は大変で、初めての私はかなりの緊張も加わりくたくたになった。途中、トイレ休憩でトラックを降りると、山の上だったのか雪が残っていて「凄いところに来ちゃったなー」と一言。
千葉県から日本列島を縦断し、新潟の村上市に着いたのは、春の日本海側の冷たい空気が張り詰めた早朝のことだった。そして、瀬波水族館の新飼育係が誕生した。この水族館の飼育担当者は飼育課長以下、なんと2名だった。その3名でイルカをはじめ約140種1,600匹の生物の飼育展示をした。
(連載 第2回 へ続く)