フィッシャーマン・ジャパンは宮城県石巻市を拠点として若手漁師を中心に活動する団体で、次世代へと続く未来の水産業の形を提案すべく、人材育成や水産物の流通改善、海の環境保全などさまざまなプロジェクトを手掛けています。(一財) 東京水産振興会では以前にウェブサイト『漁村の活動応援サイト』※ で活動の一部を紹介しましたが、2023年始動の「ブルーファンド」など、さらなる活動紹介のため同年11月にリーダーの方々との対談を実施し、その内容を皮切りとして新たな連載を開始します。フィッシャーマン・ジャパンが理念に掲げる “新3K” =「かっこよくて」、「稼げて」、「革新的」な水産業が全国に拡がることを願い、ぜひ多くの方々にお読みいただければと思います。
※ 参考記事
『漁村の活動応援サイト』活動紹介・インタビュー Vol.30 「熟練漁師が若手に学び、島の漁業存続に挑む!田代島の漁師とフィッシャーマン・ジャパンの取り組み」
自己紹介 —震災の時、その後—
長谷:本日は (一社) フィッシャーマン・ジャパン(以下、FJ)の阿部勝太さん、津田祐樹さん、長谷川琢也さんにお集まりいただき、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
FJで活躍される3人の今については、東日本大震災が大きな契機ではないかと思います。震災の時に何をされていて、その後どのような行動をされてきたのかも含めて、自己紹介をお願いします。
阿部:私は生まれも育ちも石巻で、祖父から続く3代目の漁師です。県外でサラリーマンをしていましたが、震災の1年半前に漁師を継ぎました。実家ではワカメとコンブを養殖していて、その日は天然ヒジキの開口日で、採取したヒジキから異物を取り除いて乾燥する作業をしていたら、大地震が来ました。
私は当時、漁師という仕事に情熱を持っていた方ではなく、元の職場から「戻って来い」という電話をいただいたこともあり、とても悩みました。結局、親父が養殖を続けるという決断をしたので、私も漁師を続けることにしました。
長谷:船や家も津波で流されたのでしょうか?
阿部:船も家も加工場も全部流失し、本当にゼロになってしまって、復旧するのにどれほどのお金がかかるか想像できませんでした。風評被害や原発事故の影響も先が見えず、悩みの種は多かったのですが、間もなく自分の中でやる気のスイッチがバチっと入りました。
そこで漁師を続けるという決断をしたのですから、これは一生続けるべき仕事なんだという覚悟が芽生えたのだと思います。当時25歳でしたが、どうせやるならば借金なんてすぐ返せるくらい稼いでやろう、というモチベーションも生まれました。
長谷:借金はどれくらいで返せました?
阿部:10年きっかりで返しましたね。
長谷:それはすごいですね。阿部さんや皆さんが始めたFJの活動は、いまや全国に展開していますが、家業のワカメ・コンブ養殖とFJの活動とでは、阿部さんの労力配分はどれほどになるでしょうか?
阿部:震災の年に、親父や同じように被害に遭った養殖漁家の有志を集めて「浜人(はまんと)」という漁業生産組合を立ち上げました。漁師が共同で養殖経営を建て直し、販売にも力を入れています。
当初は本業よりもFJのウェイトの方が大きく、4:6の割合でしたが、今は事務局の皆がすごく頑張ってくれて、本業に割ける労力は9割前後まで増えました。
長谷:「浜人」は漁協の組合員ですか?
阿部:そうです。構成メンバー個々も組合員として加入していますが、養殖漁場は「浜人」として利用申請して漁場使用料を漁協に払いますし、組合員としての出資金もあります。「浜人」は全部スーパーなどに直接販売していて、漁協には手数料見合いの販売協力金を納めています。
最近では個人で販売にチャレンジする漁師が出てきて、漁協でもこうした組合員の新しい動きに柔軟に対応してくれています。
長谷:もともと十三浜はワカメの名産地で有名ですよね。
阿部:そうですね。昔から宮城県内では、ワカメといえば十三浜と言っていただけるような知名度がありました。しかし、あくまで県内に限った話で、日本全国に十三浜産のワカメをアピールしていきたいという思いもあります。
長谷:ありがとうございました。次に津田さん、自己紹介をお願いします。
津田:私も石巻の生まれで、実家の魚屋を継いだ2代目です。ただ、もともと魚屋を継ぐ気は全然無くて、両親も無理して継がなくていいよ、と言ってくれていました。ところが、大学時代に始めたベンチャービジネスが失敗してしまって、家業を手伝うしか選択肢が無かった。当時は家業も厳しい状況にあり、何年か手伝って、商売が上向いたらやめようと思っていました。
震災の時は仙台のアーケード街の催事で商品販売をしていました。アーケードが崩落してこのまま死ぬんじゃないかと思うくらいの大きな揺れでした。なんとか仙台から石巻に戻るとあまりに被害が大きく、これは無理だと感じました。正直なところ、このまま廃業しようと思っていたのですが、しばらくすると、同級生が亡くなった、という知らせが入ってきました。なかでも衝撃を受けたのが、子供が生まれたばかりだったのに亡くなってしまった同級生のことです。そして同じような家族が石巻に大勢いるのだと、すごく考えるようになりました。
当時29歳で、被害が大きかった石巻で、水産の仕事をしていて、ここで逃げてしまったら絶対に一生後悔してしまう。こういうタイミングでこの場所にいることは自分に与えられた運命で、俺はこのために生まれてきたんじゃないかと思うようになりました。
その時に、パチンとスイッチが入りました。10年後でもぎりぎり30代。やるんだったら10年間一生懸命やって、それからまた違う仕事にチャレンジしてもよいと思いました。
全国的な被災地応援ムードの中、魚がよく売れましたが、しばらくして、水産業の課題解決とかもっと他にやるべきことがあるのではと思い直すようになりました。でも何をどのようにやればいいか分からない。そうして悶々と過ごしていた時に声をかけてくれたのが長谷川さん達でした。
長谷:民間企業の社員である長谷川さんが、石巻の漁業とどう縁ができたのかということを含めてお願いします。
長谷川:私は二人と違って石巻出身ではなく、海や漁師とも無縁で、Yahoo!でショッピングとオークションの責任者をしていました。東日本大震災の被害が私の誕生日と同じ3月11日ということもあり、自分も何かしなければいけないと衝き動かされました。
私は震災の5年ほど前に一回り下の弟を亡くしました。明日も明後日も10年後も一緒にいるだろうと思っていた弟が、いきなりいなくなるというのがすごくショックだったんです。そうした思いを引きずっていた時に大震災で約2万人の方が亡くなったり、行方不明になったりした。自分と同じように突然家族を亡くしてしまった人たちが、2万人の3倍、4倍、それ以上も同時に生まれてしまったんだということを、自分とのつながりの中で強く感じました。
私は震災で知人を亡くしたわけでも、家業を継ぐかどうかという事情も無かったのですが、いろいろな思いが重なって、無意識のうちにバンって、一瞬でスイッチが入ったっていう感じでした。
長谷:3人の中で一番早くスイッチが入ったんですね。
長谷川:そうかもしれないですね。インターネットの力で世の中を良くしたいという思いから入社したので、何かやるぞっていう思いは揺れた数時間後ぐらいから生まれて、著名人によるチャリティーオークション開催などいろいろやりました。
それから自分の目できちんと現場を見て理解しなければいけないと思ったので、6月に初めて個人ボランティアで石巻に来ました。東北とは無縁だった人たちが多く集まって、エネルギーを持っていろいろと取り組んでいましたので、自分には何ができるのだろうかと、脳みそフル回転で一生懸命考えていました。
僕たちが東京で暮らせるのも、東北の方々が魚や米など食料を生産してくれるおかげであるし、何よりも福島で作った電気が東京に送られている。これまでそうした大切なことに気がつかなかったのですけど、食料や電気を通じた東北と東京とのつながりについてあらためて認識しました。
お互いの人物評 ―出会い、その後―
長谷:3年前の日本経済新聞の記事で、阿部さんが長谷川さんのことを「究極の人たらし。仲間をつくるのがうまい。」と評しているのを読みました。FJの活動を見ていると、長谷川さんに限らずここにいる3人は三者三様みんな人たらしだなと思います。阿部さん、ご自分ではどう思いますか?
阿部:いや、そんなことはないです。実は人見知りなんです。
津田・長谷川:いやいや、阿部さんはすごい人たらしです。
阿部:震災後、何とかしなければいけないという思いが強くて、積極的にいろいろな人たちと関わるようになりましたが、もともとそういう性分ではないです。
新しく団体をつくろうなんて発想も当初は無かったです。でも、長谷川さんのように大勢の人がボランティアでやってきて、誰かを巻き込んで何かをするみたいなことを続けて経験して、自分の中にもそういう価値観が出てきて、FJをつくろうと思いました。
自分は個で頑張ってきたからこそ一人でやる限界も分かっている。販売や営業、会社経営は自分一人でできるけれども、もっと大きく地域の漁業、水産の仕組みを変えていくとなると個人では難しい。なので、いろいろな人たちと一緒になって、発言権のある団体をつくりたいと、長谷川さんに相談してみたのです。仲間を巻き込むのが上手な人だなと思っていたので。
長谷:それで最初に長谷川さんに相談したんですね。
阿部:そうなんです。東京に向かう新幹線の中で隣り合って座って。
長谷川:懐かしいね。
長谷:長谷川さんから見た初対面の津田さんはどうでした?
長谷川:初対面の津田さんは感じが悪かったんですよ。当時津田さんのところには、商売のお手伝いをさせてくださいという人がたくさん来ていたんです。けれども、津田さんが必要としているのは、魚を運ぶのを手伝ってくれるとか肉体労働をしてくれる人だった。そのため、初対面の人にはかなり警戒していました。
長谷:そこからどのようなことがきっかけで二人の関係が変わっていったのですか?
長谷川:実は、石巻のいろいろな人を紹介してくれたのは津田さんでした。外部から来た人たちと、石巻の人たちを集めて一度に引き合わせようと、集まりを開いてくれました。
長谷:津田さんの中で、長谷川さんへの見方が変わっていった?
津田:石巻に大勢人が来たけれど、やがてほとんどいなくなりました。でも長谷川さんはまだ石巻にいる。本気なんだろうなと彼を見直しました。
長谷川:引っ越して来ちゃったしね。
津田さんとの最初のきっかけは阿部さんのサケ漁に同行したことです。引っ越してきたばかりの10月に、阿部さんから誘われて、人生で初めて漁船に乗りました。素人でいきなり6時間も漁船に乗せられて、揺れもすごかったんですよ。でも、「ああ漁師ってこんな中で仕事をしてるんだ。サケもばんばん獲れてすげえな」と思って港に戻ったら、阿部さんのお父さんから「よく大丈夫だったね、こんな揺れることはねえぞ」とか言われて。
阿部:ちょうどその日はタイミング悪く、海が荒れていたんです。
長谷川:刺し網漁だったのでサケ以外にもいろんな魚が獲れたんです。それをSNSに投稿したら、津田さんが見て「その魚良さそうだから、持って来て」って俺に連絡してきたんです。
津田:その時鯛を買って、次の日、飲食店に売りました。
長谷川:そう。買ってくれたんですよ。阿部さんに誘われて初めて船に乗って、インターネットで漁業の支援ができないかなって思っていたら、津田さんがSNS投稿したのを見て買ってくれた。これ何かいけんじゃね?みたいことを3人とも感じたんです。
1人では何もできないし、何かやるなら誰かとチームを作ろうと、それぞれが思っていたんです。それで3人で会議をして、「これいつか『情熱大陸』とか出るかも」って、「写真撮っとこうぜ」とかって撮ったのがまだ残ってるの。
阿部:「あの時歴史が動いた」みたいな。「これがのちの何とかの夜である」というやつね、とよく言ってましたね。
長谷:阿部さんから見た津田評はどうですか?
阿部:津田さんのことを最初に知ったのはテレビ番組でした。「お魚王子」として魚市場を歩いてましたね。
長谷:そんな頃から王子キャラだったんだ。
津田:いやいや、甲子園で「ハンカチ王子」が話題になったので、僕も自己紹介の時に「ポケットから切り身を出して顔を拭いたら、お魚王子ですかね」とか言っちゃったんですよ。
阿部:漁業を変えたいと思ったんですけど、ノウハウもないし何をどうしたらいいのか分からない。いろいろ探し歩いた結果、最初にヒントを得たのは農業分野でした。
農業のコンサルなどをされている方に、生産者として自分で物を売るということを初めて教えてもらったんです。その方から、宮城県の農家グループが勉強会をするから参加しないかと誘われました。そうしたら津田さんもそのグループに参加していたんです。
彼はその日の勉強会にはいなかったんですけど、とにかく何か学ぼうと家まで訪ねていきました。震災の次の年で、FJ設立の2年前です。
長谷:第一印象は悪くなかったんですね。
阿部:そうですね。僕はどちらかと言うとビビりな性格で、新しいことをぽんと作り出すのも得意でなくて。でも津田さんは次々といろいろなアイディアを出してくれる。
自分の発想だけでビジネスをしても限界があるので、自分とは違うものを持っている人と組んだら、もっと大きなことができるし、面白いんじゃないかと思いました。
長谷:それでは最後に阿部評を。本人はビビりだと言っていますが。
長谷川:本人の前で褒めるのも何ですが、カリスマです。経営者や漁師も含めていろんな人と話をしますけど、何か安心してついていけるという感じがあるんですよ、この人には。
津田:人をつなぎとめるアンカーという感じ。
長谷:年は一番若いんですね。
長谷川:阿部さんが一番若いです。でも、阿部さんが言うと、うちの社員も、漁師も魚屋も偉い会社の社長もみんな納得するんです。これはすごい才能だと思います。
しかも会議やプレゼンがあっても、ぎりぎりまで何も考えていない。この人大丈夫かな、と心配に思うんですけど、いざ本番になると、すごく話せる。この人何者?という感じです。
阿部:原稿を用意していると駄目なタイプなんです。
長谷川:当然、海の仕事は勝てないですけど、陸の仕事でも適わないところがあります。
津田:あとすごいなって思うのは、僕、結構その時の思い付きとかで言っちゃうほうですけど、ベースとしては経営学をきちんと勉強しているんですよ。
長谷川:津田さんはMBAを取っていますからね。
津田:自分は意識的に努力して、専門の勉強をして、常にいろいろと知識を入れつつ、物事をロジカルに考えようとしている。一方、阿部さんは素で実践が出来ている。正直なところ、何だかずるいなこの人、と思ってしまいます。
阿部:人の失敗談、成功談は相当聞いてきたので、そうした経験から何か法則性とか理論とかを身に着けたのかもしれないですね。
長谷川:人から聞いた話のなかで、これが要点だという嗅覚がすごいですね。
長谷:そういう才能があるんだ。
長谷川:才能だと思います。本当に。
(第2回に続く)