宮古底曳網漁業 — 調和の体現
本稿前半で、岩手県宮古市の底曳網漁業の姿を、すでに垣間見ている。震災以後の10年の歩み、漁獲量と漁獲高の乖離、世界に届いた『The Unknown Strong and Waste-Free Fishing Industry of Iwate』の物語 — これらはすでに見た。ここでは、その姿を、海の律動と社会の時間スケールの調和という観点から、立ち戻りたい。
80年前のことば
1994年に刊行された『宮古市史』民俗編 上巻「宮古の漁撈と暮らし」には、1940年代後半の宮古の漁業の姿が記されており、そこに次の認識が刻まれている。
宮古の海の魚はかわりつづけ、漁業も加工もそれを受け入れてゆかなくてはならない。
このことばが書き留めたのは、1940年代後半の宮古の認識である。日本の高度経済成長が始まる前、漁業の機械化や流通網の整備が進む前の段階で、すでに漁村の人々は「海は変わるもの、私たちはそれを受け入れていかなくてはならない」と理解していた。
ここで「受け入れる」という言葉の意味を、確かにしたい。海を受け入れるとは、諦めではない。長い時間スケールをもつ海の律動、海流の交差、気候の数十年スケールの揺らぎ、魚種の交替 — それを「受け入れる」とは、その海の律動の上で、私たちの社会がどのように海と関係を結ぶのかにある。
海を受け入れる漁業とは、積極的な経済活動のひとつのかたちでもある。我々には変えることのできない海に対して、それでも何ができるかを、自分の手で自分たちの海との関わりの在り様を選び取り続けることである。宮古の漁業者・加工業者・流通業者・市場の人々が、80年余りやってきたのは、まさにその意味で海を受け入れることであり、海の律動と調和した社会をつくることに他ならない。その答えが、多魚種漁獲漁業であったのではないだろうか。
受け入れる漁法
宮古市の沿岸で操業する底曳網漁業は、日帰り操業を基本とする。船は朝に港を出て、昼には港に戻る。網に入るものを獲り、入らないものは追わない。漁師が魚を選ぶのではなく、その日の海が漁師に魚を渡す。その関係を、漁法そのものが体現している。60魚種以上を同じ海で漁獲し続けることができる、多魚種対応の漁法である。椴法華の大型定置網漁業も、海から渡されるものを受け取る漁法であるという点で、同じ系譜にある。海の律動と同じ時間スケールで、世代を貫いて引き継がれてきた漁法が、ここにある。
漁獲漁業の地場関連産業
宮古の地場加工業者は、本稿前半で見た水揚量と水揚高の乖離を、まさに半世紀以上の時間をかけて引き継いだ汎用性によって受け止めてきた。魚種特化専用ラインを大規模に組むのではなく、複数魚種を扱う設備とノウハウを継承してきた。
短期の生産性で見れば、専用設備のほうが効率は高い。だが、宮古の加工業者は、その「短期の不利」を、長い時間の経験のなかで覚悟して引き受けてきた。海が変わることを、彼らは、知っていた。
地元の市場の競り人がどの魚にどう値をつけるか、加工業者がどの魚を何にどう加工するか、漁業者がどの天候でどう網を立てるか、家庭でどの魚を料理するか — そんな、口では説明しきれない、けれど確かに引き継がれてきた数えきれない判断が含まれている。これらの「身体に染みこんだ判断」こそが、漁業のあり様全体が変化に対する力、抗うのではなく、屈服するのではなく、ただただ、海の在りようとともにあろうとするだけだ。
震災を超えて
2011年の東日本大震災で、宮古市は津波で街も港も破壊された。底曳網漁業は同年4月から再開し、漁獲高は増加し続けている。
震災を越えてもなおここまできたのは、震災以前の世代を貫いて引き継がれてきた漁法・加工・流通の現場の有り様が、こうした大規模災害を受けてもなお残っているからだ。世代を貫いて引き継がれてきたこの多魚種漁獲漁業と、それを利用する地場産業が、それを可能としてきた。
宮古の底曳網漁業の多魚種漁獲漁業は、海の律動と同じ長い時計で、世代を貫いて引き継がれてきた漁業である。短期の生産性指標のなかでは合理化されにくい。だが、こうした宮古の底曳網漁業の多魚種漁獲漁業は、世代を貫いて営みを継承してきた結果として、いま、確かに残っている。彼らは、海と共にある時間に対する責任を、確かに引き受けていた。
2023年3月末に出された官邸国際広報の動画が、世界に届いたのは偶然ではない。宮古が体現してきたものは、日本の沿岸の一漁港の局所的な物語ではなく、変わり続ける海と共にある社会のひとつの形である。