水産振興ONLINE
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2025年4月

ノルウェーサーモン養殖の経済学

阿部 景太 武蔵大学 教授

ノルウェーサーモン養殖の略史

このセクションでは、ノルウェーサーモン養殖業がどのように発展して今の形になったかを概観する。

ノルウェーでも最初からサーモンを養殖していたわけではなく、かつては天然のサケを漁獲していた。19世紀には淡水でのサケ漁は土地の所有権によって規制されていたが、海面でのサケ漁は自由に行われていた。19世紀中頃に、資源への漁獲圧を低減するために規制が始まり、同時に孵化放流も盛んになっていく。19世紀後半にはノルウェー中に孵化場が広まり、この産業を規制及びサポートするための政府機関も設立された。漁獲漁業を規制する水産局が1900年に設立されたことと比較しても早い段階で政府が介入していたのである。公的な名前は統一されていないが、ここでは淡水漁業庁と呼ぶ。1850年代から1870年代にかけて幼魚生産量が4倍以上増加したものの、時間が経つごとにサケの資源量を増やすことが難しいことがわかってきた。これと同時期に、サケ類以外の淡水魚を池などで養殖する小規模な試みが行われていたが、これもコストや労力に相応の利益を得ることができずに頓挫していた。

これらの失敗を受けて、19世紀終盤にかけて汽水域でのサケ類の養殖の試みが始まった。しかし十分に成長するには数年かかり、その前に死んでしまったり、海(フィヨルド)に面した汽水域の施設では嵐のときに大量に逃げられてしまったりということがしばしば起こり、こちらも商業的な成功は見られなかった。

20世紀にはいり、さらに新たな試みとしてニジマスの養殖が始まった。ニジマスは、北アメリカ原産であるが、1880年にドイツに導入され、それがデンマークに広がった。デンマークでは、第一次大戦での減産期を除いて生産を拡大させ、周辺のスウェーデン、スイス、イタリア、イギリスなどへの輸出で商業的に大きく成功していた。当時のノルウェーの養殖家たちはこのデンマークモデルを模倣しようとしてニジマスを導入したが、この試みも結論から述べるとうまく行かなかった。地理的・環境的な違いからデンマークほど生産がうまく行かなかった面もあるが、最も大きな要因はマーケットからの遠さだと言われている。近隣の都市に輸送するだけでヨーロッパに直接連結している鉄道網に載せられるデンマークと違い、ドイツなどヨーロッパ中心部に輸送するためのコストがかかったことで、これも失敗に終わっている。

海への進出

以上の失敗から、戦間期ごろにはノルウェーでは養殖業は商業的にうまく行かないのではと考えられていた。実際に淡水漁業庁が、政府直轄の研究機関の設置を提案したが、政府からは資金の提供を断られてしまった。それでもなお、業界と淡水漁業庁は孵化放流を中心に生産活動を行っていた。特に、積極的な政府のサポートは手薄になったが、養殖業者は自らリスクを取って投資を続けていた。試行錯誤を積み重ねていた養殖業者たちは、リスクの高い養殖業専業ではなく教職、工業、農業、漁業などの本業を持つ人々であったという。生きていくための手段を確保したうえで、先の見えない研究や開発に従事していたのである。そういった起業家マインドをもつ養殖業者たちは、それぞれが試した方法の結果や経験を意見交換などで共有していたが、1960年代には最初の養殖業者団体が設立され、そういった情報交換がより活発になる。その過程で、池に海水をいれることや、海水プール自体を作るアプローチが有用であることが広まっていき、最終的には海に養殖施設そのものを作る方向へ向かっていった。

海の中で養殖をするというアプローチは、様々な面でメリットがあった。魚は活発になり、成長が早く、病気にもなりにくいことがわかってきた。また、淡水の池では水温の関係で給餌できない期間があったが、海面では一年を通じて給餌できた。1960年代までの養殖業はまだニジマスが中心であったが、養殖の中心が海面に移行してからはアトランティックサーモンの割合が急激に増えるようになっていった。1970年代序盤には合計1,000トン程度の生産量のうちほとんどがニジマスであったが、終盤には約7000トンのうち6割以上がアトランティックサーモンになっていた。ちなみに2023年の生産量160万トンのうちアトランティックサーモンは94.6%にのぼる[6]

上述の汽水域でのケースで見られたように一度は失敗したサーモン養殖の海への進出が成功した背景にはいくつか理由がある。一つは技術発展である。海の気候に耐えられなかった施設は、材料や技術の進化によって軽くて丈夫かつコストの低いケージとなった。このようなケージの開発にも、小規模な養殖業者の絶え間ない努力が反映されている。様々な試行錯誤の上に開発された円形のケージは今ではスタンダードであるが、当時は八角形のケージで四角形だと角に魚がとどまってしまう問題などを解決したと言われているが、この八角形のアイデアは当時国際的な雑誌に紹介された日本の技術を見た警察官兼業の養殖業者が真似て作ったケージが元であると言われている。

沿岸域に多くの人口が集中しており、インフラが発展していた時期であったことも沿岸で生産を行う養殖業にとって追い風となった。多くの沿岸コミュニティに通じる道路、フィヨルドをまたぐカーフェリーや、トンネルが建設され、各コミュニティ間を行き来するバス、高速船や小型航空機による交通網も発達した。人口が多いことは、よい労働力が供給されることにもつながる。加えて、この時期には1960年代終盤から1970年代にかけてのニシン危機を経験し、漁業から離れた漁業者が多くいた。彼らにとっては自分の経験が活かせる新たな仕事としてうってつけだったのが養殖業であったことから、適材適所な形で労働者が確保できたことも業界の成長に貢献したと考えられる。このような技術発展と社会的条件、そしてノルウェー特有のフィヨルドに守られ比較的平穏かつガルフ・ストリームによる安定的な清潔で程よい水温の海水が運ばれてくる環境によって海面でのサーモン養殖が軌道に乗り始めた。

政府の介入による方向づけ

1970年代に起こったもう一つの重要な出来事は、ノルウェー水産養殖協会という全国的な組織の設立である。当初は業者間の情報交換や交流が主な目的だったが、徐々に業界を代表して政府や当局とやり取りを行う業界団体となっていく。この団体内でも、設立当初は明確でなかった点が、サーモン養殖業界はどのような形で発展していくべきか?という問題であった。

同時期の1972年に当時の首相と与党であった労働党が新興産業であるサーモン養殖業についての規制を議論する委員会を立ち上げた。元漁業者で養殖の経験もあり水産大臣を歴任していたNils Lysø議長の名前をとってリソー委員会と呼ばれる。この委員会では様々な規制や方向性を議論し、政府に対してレポートを提出するが、議論に時間を多く費やし、最終レポートが提出されたのは5年後の1977年であった。レポートの結論が示したのは、サーモン養殖業はある程度規制された下で発展していくべきという方向性であった。まずサーモン養殖業の所有権(オーナーシップ)を投資家ではなく、実際に現場で養殖に従事している人々に保持させるべきという観点から、集中的・大規模な所有ではなく分散した所有を維持することが念頭に置かれていたからである。これは、漁獲漁業における漁船所有の定義に「漁業者」であることが明記される参加者法にも通じるノルウェーの水産資源利用における考え方であると見ることができる。

さらに委員会では養殖業は水産業か、それとも畜産業に似た農業か、という議論も行われた。これは、日本と異なり農業省(現在は農業食料省)と水産省(現在は通商産業水産省)が別れており、いずれの管轄にいれるべきかという議論につながる。これについて委員会では意見が割れたが、沿岸の産業を総合的に発展させるという意見が強く、水産省の管轄となった。

また、委員会において主要な議題となったのは生産量などの拡大をコントロールすべきかいなかである。当時すでに急拡大の様相を見せていたサーモン養殖業であるが、問題はその急拡大に需要がついてこなくなった場合に経済的に大きな損害を被る可能性があることだった。養殖というすでに生産に入った魚が出荷されるのに数年かかる生物的な生産プロセスのために、市況を見て生産量を調整するスピードは一般的な産業に比べて遅いため極端な供給過多の可能性は大きなリスクとなる。これを防ぐため、リソー委員会ではライセンス制度による業界への参入の制限と、各ライセンスに生産量の上限を設ける規制の提言がなされた。これは1973年にすぐにライセンス法として法制化され、当初はケージ内の容積で規制する方法が取られた。

さらに、販売面においても規制が議論された。水産養殖協会は、自らのサーモンの販売を認証された業者を通して販売するなどの自主規制を行っていた。これは、漁業で見られた販売組合と同じ論理であり、小規模多数の養殖業者に対して大規模少数の輸入業者が買付を行う場合、買いたたきが起こることを防ぐために「カルテル」を組んで対抗する構図である。一つのアイデアとしては、同じ魚なのだからすでに存在している水産物の販売組合を通して販売するという方法もあったが、水産養殖協会は自ら販売組合を組織して、販売を行うことにした。このアプローチはリソー委員会でも追認され、1978年にノルウェー水産養殖販売組合が設立された。漁獲漁業における販売組合と同様に、ノルウェーで生産された養殖サーモンは販売組合を通さないと販売できないことが法律で規制される。養殖業者はその際に手数料を販売組合に支払い、それが組合運営の原資となる。販売組合は買付業者に対して最低価格の設定などの交渉を行うことで養殖業の利益を守る。

このように、政府の委員会が新たな産業が勃興しているときに非常に深くまで介入するというケースはノルウェーであっても稀である。ここまで深く携わる大きな理由は、養殖業という産業がノルウェーの沿岸コミュニティの発展に寄与するという公的な理由が存在するからである。この公的な介入がもたらした結果として、一つは産業が発展し比較的経済的な発展が遅れていた北部にも養殖業が進出した。また、大学や公的な研究機関における研究開発も振興され、その後の業界の発展に大きく寄与したとされる。

業界の急成長期

1980年代に入るとサーモン養殖業はさらなる急成長を遂げる。1980年に約8,000トンだった生産量は、1990年には約16万トンと約20倍にまで増加している。この増加のほとんどがアトランティックサーモンによるものだ。この生産量増加の背景は、いくつかの要素に分解される。まずは規制の緩和である。新たなライセンスのリリースによって養殖場自体の数が増えた。さらに、1ライセンスあたりの生産量も規制が緩まり増加した。当初は5,000m3だった容積制限が、1988年には12,000m3まで緩和された。ケージの容積だけではなく、ケージ内の魚の密度制限も緩和され、5kg/m3だった飼育密度が20kg/m3まで増加している。

この成長を支えたのは技術の発展だ。まず、餌の形式として湿式マッシュから乾燥ペレットへ移行したのがこの時代である。エクストルーダー飼料の導入によって、脂質を十分に維持した乾燥ペレットの開発が可能になり、これが取り扱いやすさや栄養価だけではなく、魚の消化にもよいことがわかってきた。これにより、FCR(Feed Conversion Ratio:増肉係数)が5〜6だった1980年頃に比べて、1990年頃には3程度にまで下がっている。また、スモルト生産の技術が向上したことも重要な要素である。スモルトは非常にセンシティブで死亡率が高かったが、スモルト生産用のライセンスの緩和に伴って多くの企業が研究開発を行い、低死亡率と高成長率を実現できるようになった。1985年のライセンス緩和時点では1,800万尾のスモルト生産が3年後には6,800万尾まで増加した。このように、技術が発展した結果として、生産の効率性も向上した。従業員一人当たりの効率性が増加したことも急成長を支えている。1984年に10トン/人だった生産量が43トン/人に増加した。

前途洋々に見えたサーモン養殖業であるが、1980年代終盤に新たな問題が2つ発生する。一つは感染症の蔓延である。効率性を向上させ、飼育密度が高くなった。また、大型化の結果としてケージ同士の間の隙間が狭くなった。これらの裏返しとして、感染症が拡大するリスクが大きくなった。1985年からのフルンクローシス(Furunculosis, 癤瘡病)、1986年から細菌感染によるヒトラ病、1987年からの伝染性サケ貧血(ISA)といった伝染病のアウトブレイクが発生し、対応に追われた。一旦病気が蔓延すると、その施設は隔離され、魚は廃棄せざるを得ない。これに対抗するために、薬品と抗生物質が多く使用された。この点については、後述する。

もう一つの問題は、マーケットの停滞であった。80年代に大きく生産量を増やしたサーモン養殖業であったが、マーケットの需要はそこまで早く成長しなかった。上述のように、懸念されていた事項であるが、業界の要望や経営環境を踏まえて生産量の規制を緩和した結果、やはり供給超過の状態に陥ってしまったのである。1989年にはそれが顕在化し、年初には1kgあたり42ノルウェー・クローネ(以下、NOK)だった価格が32クローネまで下落した。生産量を拡大すべく借金をして投資していた業者が多く、急激な価格下落に耐えられなかった業者が多く倒産した。1988年から1991年の3年間で181の養殖業者が倒産したという。これは全養殖業者の2割強に当たる。

マーケットの停滞と過剰供給の問題を解決するための一つの手段が、深冷凍による保管であった。それまでは生鮮及び短期冷凍によって収獲後にすぐ出荷するのが一般的であったが、価格が低いことから深冷凍で冷凍庫保管することで、時期をみて出荷するという方法を取ったのである。しかし、この深冷凍技術の導入に対して、養殖業者は「生産を増やせる」という反応をしてしまい、さらに供給量が増え、冷凍庫にある在庫はどんどん増加していく。販売組合は、養殖業者に生産量を減少させるように働きかけるが、ナシのつぶてであった。最低価格を設定している販売組合を通しては売れるものも売れないと、生産者たちは徐々に組合を通さない違法取引を行うようになっていく。生産者としても生き残るために仕方のない策であったが、価格が安く取扱量も少なくなった販売組合は手数料収入が落ち込み、最終的には1991年に倒産してしまった。たまたま同時期にノルウェーの金融セクターでも銀行危機が起こっていたこと、後述する海外のサーモン生産国との対立が起こっていたこと、生産者自身が販売組合に対する信頼を失っていたことなどが重なり、この倒産に対する公的な支援などは行われなかった。以来、サーモンの販売・輸出は組合を通さずに行われることになっていく。

業界再編期

1991年までに多くの養殖業者が倒産し、投融資を行っていた銀行に残ったものは誰も手を付けない養殖施設であった。こういった施設を売却しようにも、他に養殖業を行っている業者は1業者あたり1ライセンスという規制があるため、買い取ることはできない。かといって、養殖業を行っていない他業種や投資家は規制があるために購入は不可能であった。この出来事を機に、サーモン養殖業における「地元の所有権維持」「小規模で現場の養殖業者による所有」という規制が緩和される動きが始まっていく。1992年から1業者による複数ライセンスの保持が認められるようになり、主に現存していた業者が倒産した業者のライセンスや施設を買い取ることで地域内での合併が進むようになった。

この傾向は続き、1998年には29社が全体の半分以上を占める387ライセンスを保持するようになる。その中には94ライセンスを保持するハイドロ・シーフードや、30を持つストル・シーフードなどの「大手企業」も現れるようになった。この大規模化が起こっていく一つの要因には、規模の経済という概念が関係する。規模の経済は、生産規模が拡大していくと平均的なコストが下落していくことをいう。研究では、ノルウェーのサーモン養殖業は非常に規模の経済が重要な要素であった事がわかっている。一つの養殖場を大きくするという効果に加えて、企業自体が大きくなることで、研究開発や管理部門のコストに対して大きなリターンを得られるため、平均的なコストが下がっていくことで利益が大きくなる[7]

これは、企業にとって規模を大きくしていくインセンティブを持つことを意味する。実際に、多くの企業が融資を受けてまでライセンスを購入する動きが90年代に広がった。また、株式を上場して資金を集める企業も登場した。例えば、家族経営の会社として1997年に設立されたレロイ社は2002年に株式を公開した。別の例では、パン・フィッシュ社は1992年に複数ライセンス緩和のときに企業として設立され、5年後の1997年には株式を発行して約100万クローネの資金を調達した。しかし、無理に規模を大きくしようとした企業らは2000年頃に起こった再度のサーモン価格暴落の際に倒産や他企業への売却が相次いだ。上述のハイドロ・シーフードは親会社の化学肥料会社であるハイドロが撤退を決め、オランダ資本の会社であるヌトレコに売却された。また、パン・フィッシュも資金繰りが悪化し、最終的には2003年に倒産した。

この倒産・売却がさらに業界の再編を加速させる。2005年ごろにはサーモン価格は堅調に戻ったが、上述のパン・フィッシュは運営を続けながら再生先を探していた。そこへ船舶業界で大きく成功していたヨン・フレドリクセンという人物が買収に名乗りを上げる。フレドリクセンはパン・フィッシュだけではなく、フィヨルド・シーフード社、そしてヌトレコ傘下にあったマリンハーヴェスト社を買収し、それらの企業を合併。最終的に世界で最も大きなサーモン養殖会社マリンハーヴェスト社(現モウィ社)を立ち上げた。このように、ライセンス所有規制の緩和、株式の公開、そしてサーモン景気の上下による業界再編を経て、サーモン養殖業界は徐々に小規模多数のローカル業者から大規模少数のグローバル企業群へと変貌を遂げていく。

地域の養殖業者にとっても、大企業が買収することは渡りに船となっていた。家族経営でやっていくには手に余るような規模であるのがスタンダードになっていた業界において、自分の子どもに継承するにしてもその子どもに資本や意欲、経営能力が備わってないと判断されるケースが増えてきていた。そして、施設やライセンスを売却すると退職金どころではない金額が得られることもしばしばであったため、大手企業への事業の売却も特に2000年以降加速した。多くの価値を生み出すのは養殖場の施設そのものであるため、大手企業や資本家に売却しても生産現場は地域に残ることも、売却が受け入れられた要因であった。しかし、一方で地域の中には目の前の海で生産された魚の利益が地元の隣人ではなく遠く離れた名の知らぬ資本家の手にわたることに嫌悪感を示すこともあったという。

他国との対立

所有権に対する規制が緩和された一方で、ライセンスによる生産量の制限は緩和されず、むしろ強まっていった。さらに、魚の健康や環境面の理由から、餌の総量もライセンスに基づいて規制されていた。1990年代には、生産量規制は価格の暴落を防ぐという問題だけではなく、国際的な問題として対処するための政策的ツールとなっていたのである。天然の漁獲を含むサーモン(サケ類)を生産する国では、ノルウェーのサーモンが大量に安く輸入されることで国内の価格が暴落することを危惧して、ノルウェーを不当廉売(ダンピング)であるとして対処する声があがっていた。実際にサーモン養殖業やアラスカを中心としたサーモン漁業を擁するアメリカでは、1991年にノルウェーサーモンに対して26%の関税が課され、実質的にノルウェーはアメリカマーケットへのアクセスを失った[8]

EU内でも当時はノルウェーに対する制裁を求める声が上がっていた。その急先鋒にいたのがスコットランドである。スコットランドやアイルランドでも養殖サーモンは生産されていたが、それらの扱いは少数生産の高級品というイメージであった。それがノルウェーによってあたかも食肉で言う鶏肉のような大量生産をされてしまい、国内に輸入されると市場シェアが脅かされるのである。一方で、EU内でもデンマークやフランスはノルウェーサーモンを原材料として利用したスモークサーモンなどの加工業が活発であり、ノルウェーに対する制裁に後ろ向きであった。同時期に、ノルウェーはEEA(European Economic Area:欧州経済領域)とEUへの加盟交渉を行っている最中であった。1994年に、EEAへの加盟が決まったが、国民投票の結果によりEUには加盟しないことが決定した。EEAは水産物への規定がないため、GATT/WTOのルールが適用される。そのため、EUへの輸出の関税は、生鮮・冷凍品が2%、加工品の場合は13%の関税が課されることとなった。その後もノルウェーは交渉を続け、EUとの間で最低価格を設定することで合意した。

しかし、ノルウェー国内において養殖業界の生産量を直接規制することは難しく、様々な規制を持ってしても生産量は伸び続けていた。2000年の生産量成長率が18%に対して、輸出量は4%増にとどまった。2001年には国内価格はEUの最低価格を下回っていた。こうしたことが重なり、2000年前後に二度目の景気低迷が起こったのである。

この不況に対して、ノルウェー政府と業界は二つの方策を取った。一つは、生産量の規制方法の変更である。キャパシティや餌の総量による規制は、効率性が向上してしまった時点で規制としての実効性が失われてしまっていたため、直接的に生産量をバイオマスで測り規制する最大許容バイオマス(MAB)に移行した。これはライセンスごとに780トンを最大の生産量(バイオマス)とする総量規制である。

もう一つは新たなマーケットの開拓であった。前著(水産振興644号[9])でも触れているが、ノルウェーは水産物を産地やブランドではなく国ぐるみでマーケティングし、市場開発を行うジェネリック・マーケティングというアプローチを行っている[10]。当時のヨーロッパ市場に対する手詰まりを感じたノルウェーはアジアなどに市場を拡大する戦略をとった。その一部として有名なのが日本にノルウェーの水産物をプロモーションした「プロジェクト・ジャパン」である[11]。特にサーモンは中核的な位置づけであり、サケを刺し身や寿司で食べる文化を日本に定着させ、大きな市場を開拓したとしてノルウェーではマーケティングの大成功例とされている2

  • 2 1984–85年頃、駐日ノルウェー大使のホーコン・ウェクセルセン・フライホウが大使館の料理人に依頼し、養殖サーモンを寿司に使用したところ、その組み合わせが好評だったのがサーモン寿司の始まりと言われている。この取り組みで、水産物輸出に熱心だったビョルン・エイリク・オルセンが大使と共に重要な役割を果たした。プロジェクト・ジャパンでは日本産サーモンと区別するため、マーケティングディレクターのオルセンが、ノルウェー産は「サーモン」、日本産は「サケ」と呼び分けることを提案し、1986年頃から日本市場での認知度が高まり始めたとされる[12]
  • [6] Aquaculture statistics: salmon, rainbow trout and brown trout (official statistics).Fiskeridirektoratet. [cited 2025 Mar 6];
  • [7] Asche F, Roll KH, Sandvold HN, Sørvig A, Zhang D. Salmon Aquaculture: Larger Companies and Increased Production.Aquacult. Econ. Manage. 2013;17(3):322‐39.
  • [8] Asche F. Testing the effect of an anti‐dumping duty: The US salmon market.Empir. Econ. 2001;26(2):343‐55.
  • [9] 阿部景太. ノルウェーの漁業管理から何を学ぶべきか?割当制度の利点と課題.水産振興. 2024 [cited 2025 Apr 2];
  • [10] Williams GW, Capps O. Generic promotion of Norwegian seafood exports.International Food and Agribusiness Management Review. 2020;23(3):447‐67.
  • [11] 丹羽弘吉. ノルウェーサーモンの海外市場開拓手法 : 「プロジェクトジャパン」の成功要因. アクアネット. 東村山 : 湊文社. 2012;15(9):.
  • [12] Odden K. Prosjekt Japan 1985‐1990: Hvordan norsk laks ble solgt som sushi på det japanske markedet.NTNU. 2020 [cited 2025 Jan 20];