7. 被害を防げなかったのか
ALPS処理水の海洋放出に伴う社会的リスクは、①風評被害の発生、②輸出先国の禁輸措置、であった。
筆者は、①は国内に関してはメディアの対応次第と考えていた。風評被害というのは、対象となる商品について100%正しいとはいえないネガティブな情報が発信され、その情報に基づいて買い控えが広がり、供給者の収入を減らすという現象だからである。しかし、情報化社会において、それは主として消費者心理を先読みした流通業者の判断による流通業者の買い控えであり、それによる需要の喪失であると考えなければならない。したがって、問題は消費者の理解程度だけにあるのではなく、安全性に関わる情報の伝達方法と、それに関するメディアと流通業界への呼びかけであった。東日本大震災後は、東京電力福島第一原発の事故後に発生した海洋汚染が沈静化する中で政府見解の安全性に関する疑問を報じる報道が続き、流通業者の買い控えによって、海洋汚染と関係のない水産物まで販売不振に陥った。今回は大手メディアが水産物の安全性について疑問を呈せず、根も葉もない風評の発生を抑制するような報道が続けられ、流通業界が買い控えを抑制したことから、風評に基づく混乱(=風評問題)は生じなかった。この点は、政府サイドのさまざまな働きかけが功を奏したともいえる。しかし、その効力は国内のみしか及ばなかった。
次に②についてである。筆者は国際情勢上その可能性があり、中国の禁輸措置で北海道に大きな損害が生じるリスクを主張していた[5]。というのも、日中関係が良好といえない中、中国は、様々な国に対して政治的カードとして貿易に関する措置を乱発し、2001年以降、BSE(牛海綿状脳症)などを理由に日本からの輸入を規制し続けていたし、東日本大震災後の原発事故に伴う1都8県産の食品の禁輸措置も解除しておらず、さらに中国国内はデフレ不況に突入していたからである。デフレ不況での禁輸措置は中国国内の水産産業の保護に繋がり、内需拡大という経済政策としても有効であるゆえ、ALPS処理水の海洋放出は禁輸措置を実行できる格好のカードとなる。そのカードを日本政府は与えてしまった。そして、本論で見てきたような貿易による損害が生じてしまった。
これまで日中ハイレベル協議や日中与党交流が行われ日本政府は水産物の禁輸措置の解除を求めている。2024年9月20日には中国サイドが求めていたIAEAの枠組み下で中国も海洋放出のモニタリングに参加できる体制が決まり、中国の禁輸措置が段階的に緩和されるという見通しが岸田総理により示された[6]。2025年2月21日には中国の分析機関が初めて処理水を採取した。また,2025年3月22日は閣僚級の「日中ハイレベル経済対話」が行われ、その後の記者会見で岩谷外相が「水産物の輸入再開に向けたプロセスの進展を確認できた」と話した。しかしながら、現状では禁輸措置がいつ解除されるかは示されておらず、わからない状況[7]である。
では、海洋放出由来の甚大な損害はどのようなプロセスで生じてしまったのか。改めて確認しておこう。ALPS処理水の海洋放出までのプロセスである。まず東京電力が2013年1月原子力規制委員会でALPSの設置と共に処理水の海洋放出を提案したところから始まる。漁業界と東京電力との間の交渉では妥結が難しいことから、その後、政府の下でALPS処理水の処分方法の検討が行われることになった。2013年12月に「トリチウム水タスクフォース」が設置され、複数の処分方法の選択肢について技術とコストの面からの検討が行われた。次に2016年6月のとりまとめ後、「ALPS処理水小委員会」が設置され、風評被害など社会的影響も踏まえて総合的な検討を経て、2020年2月に報告書がとりまとめられた。ALPS処理水の処分方法は技術的に5つの方法が考えられ、放射線の放出量や技術的な側面から大気放出と海洋放出の二つが現実的な手段とされた。米国のスリーマイル島原子力発電所事故に伴う汚染水の処理水排出も大気放出と河川放出に絞られ、住民の理解も深めながら大気放出が選択されたのだが[8]、日本政府は、大気(水蒸気)放出ならば風評被害が農水産物や観光業界に広くに及び、349億円とコストが高いが、海洋放出ならば風評被害が発生しても福島県およびその近隣の漁業や観光業に止まり、34億円とコストが安いという理由で、2021年4月に漁業者や住民の了承を得ず一方的に海洋放出を決めて、2023年8月に東京電力に実行させた。
その結果、禁輸措置が発動され、水産物貿易において多大な被害が生じ、それが福島県やその周辺だけではなく全国に及んだ。国内の風評被害は抑え込んだものの、被害を防ごうとした政府政策は完全に失敗した。コストが安いとされた海洋放出関連の工事費(準備工事を開始した2021年度から、放出準備を完了した2023年度までに要した費用)は550億円であった[9]。トリチウム水タスクフォースの試算の16倍であり、大気(水蒸気)放出よりも100億円高い額であった。また、海洋放出の実行前に、禁輸措置をとった中国、ロシアから日本政府に大気放出を検討すべきとの要求があったという[10]。
このことを踏まえると、海洋放出が決まるまで政府関連機関が行った様々な検討結果事項は、海洋放出を正当化するためだけの整理(答えありきの誘導論理の構築)であって、最良の方法を選択するための検討でもなければ、十分に吟味された内容でもなかったといえる。もし、大気放出という手段を選べば、農業関係者など利害関係者が増えて合意を得なければならない範囲は広がるが、中国やロシアからの輸入規制を防げたかもしれず、現状よりも汚染水の処分コストを抑制できたのではないだろうか。
ともあれ、ALPS処理水の海洋放出がもたらした負の影響は水産関係者への賠償問題に派生している。損害賠償に踏み込める事業者は、請求のために時間とコストを要する。それが見合わないと泣き寝入りするしかない。実際、損害を立証できない事業者(水産加工業者など)が賠償を得られないという事態を招いている。その数は少なくない。今後、この問題についても踏み込んでいきたい。
- [5] 『北海道新聞』(2021年4月22日)インタビュー記事
- [6] 「6年ぶり 日中与党交流 日本側禁輸措置緩和求める」『朝日新聞』(2025年1月15日)
- [7] 「中国金融撤廃へ協議推進 日本水産物 日中外相が一致」『北海道新聞』(2025年3月23日)
- [8] 松岡俊二「スリーマイル・アイランド原発2号機の廃炉事業と1F 廃炉の将来像を考える」『アジア太平洋研究』(44号、2022年、pp.77–100)
- [9] 報道では590億円であったが、経済産業省資源エネルギー庁に確認した。
- [10] 『日本経済新聞』(2023年8月20日朝刊)