6. 損害額を考える
海洋放出後1年は、円安基調が強まり、実質実効為替レート指数に表れているように空前の輸出環境が整った時期であった。海洋放出が行われていなければ、輸出額は減るどころか、海洋放出前からさらに増加して、業界に大きな利益をもたらしていたと考えられる。そう考えると、海洋放出前後の比較でみた減額分(758億円)以上の損害が生じたといえる。
水産物輸出の減額は、2022年に輸出先1位であった中国が水産宝飾品を除き水産物を全面的に禁輸措置の対象にし、同年2位の香港が1都9県を対象に禁輸措置を執ったことが大きく影響しているが、中国や香港以外の輸出先のうち、大きく輸出増となった国・地域はベトナム以外なかった。むしろ減額となった国・地域の方が多かった。実質実効為替レート指数から判断すると、中国・香港以外の国・地域では輸出額が増加しても不思議ではない。中国・香港の水産物需要を喪失しただけでなく、その喪失に伴う供給過剰感によって国際取引において価格下圧がかかったと考えられる品目が少なくなかった。
このような状況となったのは、風評による影響(アメリカのホヤの例など日本産水産物の忌避)や、中国や香港に輸出できない分、他国に増やす方向が強まり、輸出相場が崩れたという見方ができるであろう。ALPS処理水の海洋放出が水産物貿易に与えたインパクトはかなり強かったといえ、水産物輸出の中国依存を回避する動きが強まると同時に、日本の水産物マーケットの形を変えてしまった。
ところで、ALPS処理水の海洋放出がもたらした水産物輸出の不振により、国内の水産業界に多大な損害を与えることになった。ALPS処理水の海洋放出に関連した東京電力への損害賠償請求は2024年12月18日時点で請求書発行1,600件、請求書受領830件、支払い400件となっており、賠償額は約500億円となっている。2025年2月26日時点では、支払540件、賠償額約550億円となった[4]。この時点で、550億円の損害が確定であるが、現在も請求が続いていることから、まだ増える可能性がある。
他方、ALPS処理水の海洋放出によりどれだけの損害が出たのか、検討した結果は見あたらない。そこで、海洋放出前後における輸出の減額から損害を考えてみたい。ただし損害というのは、実際に見込まれた収入のどれだけが失われたかである。したがって、見込みの収入を計算する必要があるが、その推定はすでに触れたとおり困難である。とはいえ実質実効為替レート指数では、海洋放出前後では後の方が輸出環境は良好であった。そのことから、最低でも海洋放出前の輸出額が見込めたことにする。
次に損害の主体についてである。漁業者が直接輸出しているというケースは極めて少ない。多くは、水産加工業者などが漁業者の水揚物を買い付け、付加価値を付けてから輸出している。加えて第3の業者が水産加工業者から買い集めて輸出している場合もあり、水揚げから輸出までのルートはさまざまである。しかし、ここではおおよその損害を考えることとして、漁業者が水揚げしたものを水産加工業者が買い付けて輸出するという基本ルートをモデルとした損害を考えたい。
条件としては、漁業者も水産加工業者も海洋放出前後で同じ努力をしている(同じ操業頻度とコストをかけている)ことである。これを前提に、漁業者の海洋放出前の販売額A1、海洋放出後の販売額A2、輸出する水産加工業者の海洋放出前の販売額B1、海洋放出後の販売額B2とすると、海洋放出前後の総損害額 X は (A1 − A2) + (B1 − B2) になる。また水産加工業者が生み出した付加価値額をαとすると、水産加工業者の販売額Bnは漁業者の販売額Anとの関係で見れば Bn = An + αn となり、従って An = Bn − αn となる(計算式①)。
計算式①を踏まえると、総損害額Xは以下の式展開により、
X = (A1 − A2) + (B1 − B2)
= (B1 − α1) − (B2 − α2) + (B1 − B2)
= B1 − α1 − B2 + α2 + (B1 − B2)
= (B1 − B2) + (α2 − α1) + (B1 − B2)
= (α2 − α1) + 2 × (B1 − B2)
という、海洋放出前後の輸出額の差 (B1 − B2) および付加価値額αの差額 (α2 − α1) で構成される別の計算式で表すことができる(計算式②)。
計算式②に758億円を当てはめると、α1 > α2 であるのならば、損害額Xは輸出減額の倍には至らず、758億円 < X < 758億円×2 であり、α1 ≦ α2 であるのならば損害額は X ≧ 758億円×2 となる。αn は簡単に想定できないが、現実的には禁輸措置で需要が縮小しているゆえ、物価を考慮しないと α1 > α2 であると考えられる。ただし、海洋放出前在庫の海洋放出後の販売は α1 ≫ α2 となっていることから、海洋放出前の在庫販売は禁輸措置に伴う損害が水産加工業者に及び、海洋放出後に水揚されたものは水産加工業者の対応は変わるので α2 が α1 に近づいて、損害額が漁業者にも転化されたと考えられる。
結論としては、海洋放出前後(1年)で見た禁輸措置や輸出減に伴う損害額は、758億円 < X < 758億円×2 が妥当と考えられる。ただし、この値は海洋放出前の実績を基準に考えた場合である。実質実効為替レート指数は海洋放出後が海洋放出前より輸出環境が良好であったことを示していた。そのことを踏まえると、海洋放出後の輸出見込み額は前年度を上回るはずである。その上回った額をβと考えると、損害額は (758億円 + β) < X < (758億円 + β) × 2 となる。
中国、香港、マカオの禁輸措置は現在も続いている。海洋放出から1年以上が経過した現在の損害となると、さらに積み増しされるということを付け加えておく。もちろん、販路を他に広げて行くことで損害は縮まっていくが、現状では出口が見えていない。
また、中国などの禁輸措置が解除されたとしても、輸出環境が海洋放出前に直ちに戻るというわけではない。それは、日本産を輸入していた中国の水産加工業界がすでに日本産の代替品を他国から仕入れて対応しているからである。禁輸措置解除により改めて日本産に切り替えるという動機が強く働かない限り、日本産への再切り替えは直ぐに進まない。また日本の水産業界も中国というカントリーリスクがはっきりとしたことから中国輸出を控えることになる。貿易が海洋放出前には戻りにくい理由は、中国国内と日本国内の両方にある。
- [4] 東京電力ホールディングス公式websiteでは、原子力損害賠償の請求・支払いについて定期的に公表している(https://www.tepco.co.jp/fukushima_hq/compensation/results/)。ただし、ALPS処理水の海洋放出に伴う賠償に関しては、メディアの取材による公表である。例えば、福テレ2025年3月9日記事「〈福島第一原発〉処理水放出・賠償は550億円に 2025年3月10日には次回の“準備”開始」(https://www.fukushima-tv.co.jp/localnews/2025/03/2025030900000002.html).