1. 明治漁業法と当時の実態について
⑵ 各論
専用漁業権について
長谷 では各論の話として、専用漁業権というものの実際を我々は知らないわけでして、こんな感じだったという話をしていただければと思うのですが。
高橋 漁業法の中で皆さんはあまり言わないんだけど、僕としてどうだったかなという問題がひとつある。それは免許を大臣から知事さんにしたことです。どこが欠陥かというと、実態を探究する若い人の勉強の機会がなくなった。直接免許をしているのと、地方で免許して間接に問題が起きてから聞くのと、どうも感じ方がね。ちゃんと勉強する意味ではエラーだったかなという気がしている。
それから、今のご質問は全くその通りで、特に海藻貝類に限られたというのは、現実は明治法制、漁業組合準則で今までの日本のやり方は引き継いだでしょ、あれは助かった。それは小沼さんも知ってるはずだ。それがあって法制化したというのがだいたいの経過です。だから、あの順序がないと、わけがわからなかった。それから地域によって千差万別だったかどうかというのは、これは当然ありました。ひと口に専用漁業権といっても、慣行によるものと地先権によるものと二つあるでしょ。ことに慣行によるものは、本当に慣行を専用漁業権に移したので、当然地方によって異なる。例えば所有の問題にしても、必ずしも今のように組合有ではなく、個人有、共有、部落有、村有、いろいろあった。それから、個人共有もあった。例えば日本海のタラの延縄が個人共有の慣行の漁業権だった。実にいろいろあったのです。だいたい距岸200mくらいで、そのとおりです。やっぱり海藻貝類が多かったですから。特に北海道の漁業権がかなり沖まで出ていた。これは地先権だったけど。慣行漁業権の中には大きいタラバの漁業権のようなものもあった。それから連合会所有で、例えば高知県の沿岸漁業の慣行漁業権。これが例の高知県の焼打事件の底曳と慣行専用漁業権と称するものの衝突事件。それは一つの例です。それから、海藻貝類に限られたというけど、海藻貝類がかなり入会権の主体だったことは説明できるが、そうでない、貝類海藻類がない浜地帯がどうなっているかが一つの問題です。それから、ここに触れていないが、本当は入漁権の問題が非常に大事なのです。人の漁業権の中に入ってくる。その漁業権を借りてるわけでもなくて、一つの大きな権利なのです。しかも慣行の場合は、地先権を設定したあとで職権でもって入漁権を請求する。しかも入漁の実態は、登録されたものだけが全部ではないんです。むしろ、それは極めて表面的なものであって、むしろ訳のわからない入漁の実態が多かったかもしれない。入漁権を調べていくと、きちんと組み立てられているように見えるかもしれませんが、それは千差万別です。
それから所有の問題。個人の漁業権、強いていうと千葉県の仁右衛門島です。だけど、ぼくらが誤解したのは、平野仁右衛門さんが頼朝公のお墨付きで、見える限りの海はお前の海みたいなものだから、すべてお前が獲っていいというようなことをおじいさんは言ってましたけど、免許の内容はアワビとサザエだけでした。それだから、個人の漁業権はそれほど問題にならなかったのです。一つの事例としてあっただけで、実際はそういうのはなかった。それから、頭にあるのは、さっき少し触れました入漁権です。長崎では家船の連中。これは家を持たない漁民でした。従って旧漁業法では、要するに組合をつくって地先権として免許を受けるというのではない。あれは大村藩主が戦争に負けて家船に助けられた歴史からあるんです。それで、長崎県では今でいう共同漁業権、専用漁業権の中に入漁権というのが存在したんです。それで生活した。大村藩公の管轄する海のすべての漁業権の中にあった。アワビとサザエのないのは別でした。私は卷物を見せられましたが、正直いって判読不明でした。
それと、僕は役所に入った時に明治漁業法で免許された免許状の登録原簿を見せられましたが、何もわかりませんでした。それはなぜかというと、免許される魚の名前を全部漢字で書いたからです。何を免許しているか勉強しておけといわれても、勉強のしようがない。あと、面白かったのは実地調査に行ったことです。関東大震災で本省の登録原簿がみんな焼けてしまいまして、その復活をやったわけです。証拠書類がなくて、免許状を再登録に移すのが大変でした。そのために「おまえは若いから現場へ行け」となったわけです。漢字の問題があり、網の名前も地方ごと違う文章だし、大変でした。それでも農林省がちゃんと専用漁業権の原簿を持って、少なくとも若い衆の誰かがそれを読みこなした。その後は魚の名前なども更新し変更許可されたときに、ひらがなになりました。
それと、専用漁業権の内容となる漁業は免許がなくても誰でもできるんだ。浜でうかつにそれをいうと大変だけど。
明治漁業法下における新規免許の取扱いについて
黒萩 次のところに書いてある、明治漁業法下での新規免許の取扱いですが、これは千葉県の技術吏員をやっていた方が、古い資料を調べて、かなり歴史をさかのぼって書いた本があり、そこから拾い出したものです。房総沖の器械根というアワビ漁場を最初に発見したと称する人が、当時の農林省の水産局に免許をくれと訴えた。当局は「これは明らかに専用漁業権のようだから、あなた個人に免許することはできない」といわれた。当然そうですよね。たぶん、そのあとフォローとして、高橋さんのおっしゃったように、専用漁業の内容の漁業は誰でもできるからという話があったのだと思います。その人は、それを持ち帰って、知事との間に政治的に近いものがあったと書いてありました。要するに区画漁業権として免許してしまった。移殖をちょいちょいと、年に一貫目だったか二貫目だったか小さなアワビを放流するから養殖だ、三種区画漁業権だということで、そのあとずっと、ショバ貸しみたいなことをやって、ずっと紛争があったそうです。そのあと戦後の漁業制度改革で調整委員会で何回も何十回も話し合いをし、解決できたという結びだったと思います。そういう曲解というか、便法として使われていたものがあったのかなと。確かに三種区画漁業権というのは、そういうやり方もできないわけじゃないなと思ったものですから、実際はどうだったのでしょうか。
高橋 あれは、いろいろな考え方がある。そういう海面で沿岸漁業者がやっているような漁業を関係あろうがなかろうがやるっていうことが、いかにとんでもない問題になるかということ。それから新しい技術を入れる場合に、どういう困難な道があるかということも考えていただきたい。あれは、要するに潜水器漁業の技術的な発展で起きた新しい問題だったのです。従来の沿岸漁場にないところで、増殖技術が若干ありましたからやって、さあどうだというときの大騒ぎです。潜水器という技術の対決の一つの事例として考えるべきでしょう、あれは。
黒萩 今まで行けなかった漁場とか水深があるわけですよね。それが、技術的な発達で船が大きくなったり、潜水器ができたり、底を引く技術ができたりして、漁場が開発されます。そうすると必ずこういう問題が起きるのであって、そういう場合は、法律的にも解決の方法としては、話し合いだけです。
高橋 漁場計画をきちんとやればいいというだけの話なんですよ。新法がないと大もめにもめてどうしようもないですよ。嘘にも本当にも、調整委員会というわけがわからないものがある。それで漁業権を決めるんだと。だって、その場合に、おまえのところが外れたと。調整委員会の方に文句を言ってくれよという格好で、すーっといっちゃったのかな。そこへたどり着くのが新法のひとつだな。
黒萩 もうひとつ、基本的な発想として先願主義というのがありますよね。はっきりは書いてないが、新規漁場については先願という、見つけて先に申請した者に免許されるようなことですが…。
高橋 ありません。ただし許可漁業には絶対あります。
黒萩 区画漁業にもなかったですか。
高橋 知事さんの区画の場合には、若干あるでしょうね。それは専用漁業権の中かどうかが、ひとつの問題でしょう。
赤井 ちょうど高橋さんがお入りになったころは、戦前では養殖が一番発展したころじゃないでしょうか。カキとか、まあノリはその前からでしょうけど。
高橋 そうですね。発展したというか、いろいろなことをやってはしくじり、やってはしくじりという感じでした。
赤井 その時に、やはり区画漁業権を設定する際にトラブルはなかったのでしょうか。
高橋 ありましたよ。一番は真珠ですね。ノリもありましたよ。いってしまえば、区画漁業権は誰がやるかわからない入会状況です。それがだんだん技術発展し、今日はここ、明日はここというふうにはいかなくなった。先願主義があって、その悪い点を直すために、組合員に持たせて輪番制か何かでやるのが一つのやり方でしょ。だいぶそれで乗り切ったはずです。それから次の問題は、軍隊からの復員の時に組合員が「俺にやらせろ」というやつ。ところが復員してきた人全部にやらせるといっても、いくら名案を作ってみても賄い切れない。魚類養殖や、真珠のようにパチッとすると、組合で解決するのが一番いいんだけど、それではちょっと物足りないところがあるんだな。
特別漁業権
長谷 次は特別漁業権です。お配りした中に「明治漁業開拓史」からの資料(略)があり、ここで今出ました慣行専用漁業権という組合が持っていたものと、個人が持っていたものがありますが、特別漁業権もあるんですね。高橋さんは本の中で、徳川時代に多数入り会ってできない漁法が生まれてくると、網元層が出てきて、特別漁業権というのはそういうものなんだといっておられますが、また別なところで飼付だとかシイラ漬けは、ほとんど組合有だと、そんなことが書いてある。全体としては、特別漁業権は組合が持っていたのが4割、これは明治43年の段階なのですが、もう少しそれぞれの漁業ごとにどんな感じのものだったのでしょうか。
高橋 専用漁業権と区画漁業権は、ある程度割り切れたのです。ところが、変なのがあるんだよ。それは全部特別漁業権に落としてしまった。地びきは専用漁業権と特別漁業権と二つあるでしょ。引揚げ場所が同じなのです。地びき網の漁業区域、要するに免許された区域ですが、それが重複するということは今は考えられますか。引揚げする浜の場所は重複してません。本当はあれはおかしい。文句が出るはずの問題なのですが、出たのを聞いたことがない。
それから、一番ひどいのは知事の管轄水域だね。これはもちろん慣行によって決まるが、実態を見ると、これはこう、これはこうというのがかなりある。それは自由漁業ではなく、知事の許可漁業で許可証をみると千葉県沖合漁場、何県沖合漁場となっている。漁業によって、かなり適当にやっているということを知ってもらえばそれでいい。
あとはシイラ漬け、これはどうにも弱っちゃった。独占しているといえば独占しているような。だけどね、ブリの飼付もそうだが、資本を投下して苦心惨憶としてやっている漁業です。それを何もしないやつが獲ると、やっぱり漁業者は怒りますよ。実態が成り立たない場合がある。これを許可漁業に移した。許可漁業じゃないと思うんだけど、漁場があまりに遠くてね。そういうこともあり、知事さんの方にお願いしようじゃないかと。
赤井 あれは最初、知事の免許でスタートして、シイラ漬けは38年に外したんです。
高橋 そうでしたか。じゃあ、それは僕の勘違いですね。
黒萩 シイラ漬けはそうですね。他の飼付漁業などの三種共同漁業権は県によって結構色分けができるところがあります。許可でもやっていて、三種共同漁業権を設定しない方針でやっているところと、両方ある。そして私の知っているところなどは、三種共同漁業権でやっていても行使者は一人なのです。そういうところが多いです。変なんです。行使者一人の共同漁業権なのです。
高橋 寄魚漁業や鳥付こぎ釣漁業は、ひとつは名称の面白さですね。松元さんが興味を示して、でも実態はたいしたことないな。それから、海藻貝類の本当の今でいう共同漁業権は、村というか部落というか、長崎でいえば郷とか、その連中が管理している。その理由の一つは、漁業組合を設立しきれなかった。長崎県のようにね、漁業権はありますけど、組合をつくるのは困りますと、あれは郷が所有するということで片づけちゃった。もう一つは白浜のテングサの村有です。協同組合ではなくて、村有です。
赤井 あれは特例で伸ばしたんですね。新法になっても。
高橋 それも組合側でがんばり切れなかったな。というのは、あまりにもいいことをやっている。それを悪口をいえばいえるが、客観的に見てもね。わざわざ何で協同組合に持たせなければならないのかという問題がありました。それから、さっきの郷やら何やらの問題に絡んで申し上げると、漁業組合というのは漁業の管理をする組合だけど、ちょっと荷が重そうなところがだいぶあったな。その場合、村役場に全部事務を見てもらった。名ばかりの漁業組合というのが多かったね。それが協同組合に変わってから、漁業権の管理だけではしょうがないということになって、さあ今度、ぼくらが悩んだように、漁業権の主体をどういう形のものにするか。協同組合というのはあまりにもどうもこれでいいのかという問題があった。とにかく協同組合みたいなものに漁業権を持たせるのはどういうわけかという議論があつた。初期の段階です。第二次案のとき。塩見さんの考え方の中にも、漁業権の管理という公的な機能を協同組合に残すというのはどういうことかということがあったな。
小沼 加入脱退自由の協同組合で管理ができるかということでしたね。
松元 僕の記憶では、塩見さんの時と久宗さんの時ではずいぶん変わっています。一番当初の漁業制度の改革は、単純化しますと個人有はよろしくない、すべて組合有にすべきというのが念頭にあったはずです。例えば野村さん(大先輩の大物技師。後出。)なんかは全部組合有にすべきで、しかも極力、専用漁業の範囲を広げろと。つまり組合管理にして広げろと、伝統的にあったのは組合有にすべき、しかも専用漁業は極力広げて、ということでした。それに対して、久宗さんが、がらっと変わった。逆にそうやると生産力発展を阻害すると。
高橋 とにかく技術の発展をさせなければいけない。それは資本だと、若手が言うんだよ。どういう経済感覚なのか、要するに近代化しなければ生産力は上がらない。そのためには資本がいる。近代化するためには装備を近代化しなければいけないと。若い人が俺とやりあった。お前ら、池の中を機械化した漁船が走って、それで生産力が上がるのかと問い詰めると、そうだと言うばかがいる。俺には理解できない。それは生産力というものの、一つの見方だろうな。全体の生産量が落ちても、ある労働生産性なりが上がれば、それを生産力の向上だというんだと。そんなばかなことはないと。極論すればそうだけど、今でも共同漁業権の漁場の中で、機城化した漁法を入れてどうなるかという問題は、引き続きやってもらいたい。これは未解決だから。明治漁業法はいいところがあるしね。とにかく彼が言ったように、あの中から少なくとも磯物だけに限定して、とにかく漁業権の内容を磯物に限定しちゃったんだよ。そのことが、生産力の発展になるというひとつの大きな議論があるんです。俺はそんなばかなことはないと言うんだが、そんなばかなことはないというべきか、一つの生産力の発展というべきか。それを解決する技術が今、どこまで発展しているのか。管理的なやり方を浮魚にどの程度までやっていくのか。彼と論争しても、その時点は僕の負け。磯物に限ると。
小沼 だからね、浮魚は外そうという線でいった。共同漁業権は海藻貝類、地付きのものに限ると。そういう形にしようと。それが今の漁業の発展のためにいいのだと。ただ、現実は、それが今度は知事許可の方に入ってきて、自由になるわけではないんでね。知事許可の関係で、全体の生産力と合わせていく格好になっていくのが経過ですけどね。とにかく浮魚は外そうと。それが明治漁業法との一番の違いです。包括的に専用漁業権で抱えていた部分から、浮魚を外してしまった。
松元 だいたい、専用という言葉からすれば、全部専用という感じがするわけですよね。
高橋 いやあの言葉がいいんだ。専用というと、とにかく収まるんだ。管理だと思って。免許に書いてある中は漢字で読めないしね。しかも農林大臣の免許だ。
松元 だからね、あの時浮魚を外そうと言ったのは久宗さんなんだ。それに対して、野村さんが、どう理解したんだろうか。そして多少は妥協したんですよ。それで浮魚が広がったでしょ。あれは私の案なんです。初めは本当に根付魚に限定されていたのが、それを、そうもいかないと妥協したんです。
高橋 だけど、いまだにおかしいと思っているんですよ。それは解決して下さい。
黒萩 あの、現在は、戦後それは多分地方の役所の人たちが解決した話なんでしょうけど、ほとんど残ったのは釣りと浮延縄だけで、ほとんどか'知事許可制になった。実際に共同漁業権の範囲に入って操業する時は、その共同漁業権の保有者の同意をとらなければならないという制限条件を全部つけていますから、実態上はほとんど専用漁業権のままだと思います。結局、そういう意識で自分のところの組合員に対してしか同意しない。通常であれば、専用漁業権の時代に入漁権で入れていたようなところの連中には、同意をしてやらせるというような形でやっている。だから、漁業者の意識は変わっていない部分が多いように思えます。
赤井 今、生産力の問題では、同じひとつの組合の中で対立があるんですよ。例えばアワビを獲るのにも、岩手県では絶対に潜水器を使わせません。岩手県の中でも潜水器を使って獲った方が、より資源もうまく管理できるし、適正に漁獲できるのではないかという意見もあるが、絶対に認めないんですよ。
高橋 制限する方法は、本当は理屈をいえば、何トン獲ればいいという制限方式の方がいいことはわかっているが、これは現場へ行って実行できないんです。そうすると、一番たやすいのは禁漁区、禁漁期、これは割合と守りやすい。単純明解だから。ところが、それを許しておきながら漁獲努力量を抑えるというのを、どういう格好にするか。これは難しい。この問題は単純ではない。与えられた漁場をいかにやるか。いかに、という中に民主化でもなし、何とか魚は増やしたいしという問題だけならね。前の問題はずいぶん甘かった。簡単じゃないね。
区画漁業の分類
長谷 あと、区画と定置の話になりますが。
黒萩 区画漁業権を一種、二種、三種というふうに分けて、明治漁業法時代は政令であり、現行法は法律そのものでうたってあるという違いはありますが、基本的には一字一句違いませんよね。それで、一種、二種に該当しないのが三種であるというのは、ものすごくセンスのいい決め方だと私は思っておりまして、初期段階で区画漁業というのは技術革新していくものであり、だから一種にも二種にも該当しない、思いもよらないものが出てくるかもしれないから、三種を置いたのではないかと思ったわけです。あと、区画というのは実質的に場を占有する形態であるものだから、基本的には本当に許可的な禁止の解除をしなければならないという必要性から、とりあえず区画、養殖はすべて一回禁止しちゃおうという発想なのかというのが①以後の技術革新による展開を予想したことと、②とりあえず全面的に禁止する必要性があったことなのですが…。あと、その次の話では、大正10年に漁業種類主義みたいな形でテングサ養殖業、魚類養殖業とか、列挙式にして10種類に限定せよという水産事務協議会というものの答申を見つけたのです。この指摘に、一種区画の定義が非常にわかりにくいとか、二種もそうなんですけど、そういう議論が大正10年にすでに出ています。あと、制度改革にもってくる時に、何でそのままもってきたんだろうかということもあるんですね。大正10年に指摘された話が当然出てしかるべきだったような気がするんですよ。それをあえてそのままもってきたことについては、あまり議論がないんですか。
松元 議論した記憶がないですね。
黒萩 井出正孝さんと、もう一人、片山房吉さんがまとめている本があって、星四郎さんか誰かのにも出ています。それで初めて漁業種類が並べられる方向が答申されたけど、そのあと議論された様子がない。ただ覚書みたいに、片山房吉さんは、こういう議論があったと書いておられます。
高橋 私の想像も交えると、区画されることが問題で、しかもその中で起きる今までにない漁業というのは、とにかく制限しておいた方が無難だという考え方からいって、何をやるのか、区画するから漁業権をくれといっても話にならないんです。漁獲物まで書かせているでしょ。
黒萩 はい。免許の内容には書かせています。
高橋 養殖か増殖かという問題もあったな。
黒萩 所有権があるかないかですね。
長谷 三種区画はそこが相当あやしいですね。
高橋 いろいろな問題があるよ。東京湾に金網を張って潜水艦が入らないようにしたでしょ。その補償事務を俺はやったんだけどさ。九十九里の演習の話もあったな。
赤井 今のお話は、朝鮮動乱が始まったことによる、東京湾に防潜網を張ったことと、海上演習を一生懸命やるようになったということです。
小沼 最初は終戦連絡事務局が中心になって個別の問題をやり、後半になってから補償の規則をつくって、ちゃんと計算方式を立てて、全体で4億円くらいを6~7年出しているんですよ。
定置漁業の分類
長谷 定置の種類を明治の時に制限列挙されてぃたのはどういう経過なのですか。
高橋 それは旧慣をそのまま受け継いでいるのであって…。
黒萩 当時はどんどん技術革新していったんでしょうけど、旧慣じゃないような、そういうのは最初はとりあえず自由漁業になったようなところはあるんですか。
高橋 それはないです。県では勝手にやられるのが一番困るんです。アジを獲るといってサバを獲ったり、困るんですよ。紛争のもとで。だからアジ・サバ定置といってみたり。とにかく現状をちゃんと確認しておいて紛争を防がなければ、免許係はつとまらない。だから厳重にやったのではないですか。
赤井 今は、そういう点は割合問題になっていないけど、例えば北海道の羅臼沖でサケではなくてイカがたくさん入ったとか、おそらく昔だったら騒ぐと思う。
高橋 僕が悩みに悩んだ問題を、彼はバッサリやった。定置というのは定置そのものだと書けばいいじゃないかと。サケマスは定置、水深に関係ないんです。水深で割り切ったところが、僕の一つの技術的な割り切り方です。定置は資本の大きさというより、定置の大きさそのものです。あれは誰でもわかるんだから、とれば網の大きさもわかる。限定することができる。場所もある程度限定できる。それを、彼は割り切ってサケマスは別だと、定置にしたらいいでしょうと、そういう割り切り方をしてくる。
小沼 あれはそんなに問題が出ませんでしたね。27メートルのあれで…
赤井 あれはしかし、陸奥湾が確か問題になりましたね。例外としてね。
黒萩 何で27メートルなんだと、昔、行監の人に聞かれたことがあります。
赤井 あれは間に換算すると確か15間になるんです。1.8をかけると。
沖合漁業との調整
長谷 時間も少ないので、漁業権のことを離れて、沖合漁業との話、これが大変な課題なのですが。戦前の話について、高橋さんにお願いしたいと思います
高橋 戦前の漁業法には、水産組合制度がありました。これについては、(制度改革の時)あまり松元さんは触れてくれなかったけど、水産組合という制度、知っているでしょ。旧法では何をやっていたか。まず名前を入れた。露領水産組合、トロール水産組合、それから捕鯨もあったと思います。これがぼくらの時代では、こんなつまらないことに熱を上げてしまって、大事な問題はちょっと触れ損なった。水産組合の問題は、抜けてるから、沖合漁業、外国関係の漁業についての一種の管理的な団体なんだよ。言われてみればそうでしょ。何をやったか。もし、これに近いようなことを考えているとすれば、この問題は絶対に研究して下さい。
赤井 その問題は、工藤さんがまとめた対策資料で、水産組合は何をやったかというのは、そこが一つ問題だったといって、あまり書いてはいないが、触れてはある。
高橋 というのは、ぼくらの時代は昭和に入ってから事実上、露領漁業関係は最盛期から去ったんですよ。撤退はしなかったんだけど。本当に水産組合が盛んだったのは、大正時代ですから。僕の記憶では、水産組合が相当、当時でいう役所の代わりみたいな民間でもない…でしょ。そういう形が話題になるでしょうから、それがこうだったということだけは的確に…。相当あれしないと、だんだん公取に引っかかってくるし。この問題は皆さんは忘れているし、僕も忘れたから、頼みます。
赤井 だから、今のTAC制度の業種別団体のような役割なんですよ。底曳とか、TACを決める時に業種別団体がやるでしょ。それと同じような役割だったと考えたらいいんじゃないでしょうか。
高橋 あと、帝国海軍ね。これはどうタッチしたかよく勉強してください。特に北洋関係について。ちゃんと勉強しておいて下さい。
黒萩 日魯と一緒にカムチャツカとか行くのに一緒に付いていったという話は、よく読むんですが。
漁業取締
長谷 取締りの実態ですが、戦前と戦後を見ておられて違うものですか?
高橋 これはあまり言いたくないのですが、紛争というのは殴り合いがあって取締りがある。それが今はないね。そういう雰囲気。頼みにしていた調整組合が、沖合の問題についてはあまり動いてくれないような気がするな。だから、今度は沖合漁業という名の皆さんが抱えている問題を解決するための、調整委員会制度が機能できるかできないか、それに代わるべき団体的なものができるかできないか。団体はみんな逃げてしまってだめで、役所が出なければならないかどうなのか。それには海軍のバックがいるのかいらないのか、そこらへんはつめて考えてもらいたい。下駄をどこかに預けて、そうでないと体はもたないよ。水産庁はここまで、あとは海軍さんよろしくと、まさか言うまいとは思うが、言うなら言わないと。国際漁業というのは、外務省だけではね。
昭和8年改正
長谷 今は漁協の広域化というか、合併を一生懸命進めているわけですが、これは昔からある話で、また漁業権の話に戻るかと思いますが、漁業権管理主体としての組合と、経済事業をやる組合との二面性というか、矛盾というか、今も引き続き抱えて対応しています。合併助成法も、今度新しくしようとしているんですが。漁業制度改革の方にちょっと入っちゃうのかもしれませんが、漁民公会案とか、そこらへんの裏話、当時考えておられたことをお聞かせいただきたいのですが。
高橋 最初、漁業組合があって、それから協同組合になるときに大論争があったのです。当時は、漁業組合と産業組合でいいじゃないかという議論が、非常に有力だった。それが漁業組合が協同事業をできる、むしろやるべきだと。問題は漁業権管理の問題ではなくて、金の問題だというウェイトが強くなったような気がしないでもない。だから、協同組合の漁業権管理と経済事業は、本当は分離した方がいいんじゃないかなというのが個人的な感想。だけど、当時動いている戦前の不況、戦後の経済混乱の問題を突破するには、協同組合運動が絶対に必要だったんでしょうね。ただ、最初にあった漁業組合と産業組合の問題は、いまだに残っているね。特に今後は、その問題も重要だということになると、産業組合はどうかなあという気がしないでもない。かといって、当時、僕があまり松元さんに主張をしなかったのは、やっぱり組合をつくることは実際問題として経費がかかる。だから、当時は役場に任せて、問題のときだけ肩書きを持つ人だけを役場に集めて、その方が非常に便利でよかった。それがだんだんなくなって、今のような状況になったんだけど、もう一度考え直した方がいいかもしれない。
小沼 今の段階でもう一度問題になると思うんですよね。経済事業をやるのに、農協だって合併問題でがたがたやっているが、漁協の場合、合併以前というか大変小さな組合がずらっと並んでいる。そういう形でいいのかという話が出てくる。その場合、農協と漁協を合併して地域として展開するとか、そういう経済面が一つある。もう一つの側面は、まさに漁業権の問題です。漁業権を管理する主体として出てくるので、それをどういうふうに位置づけるのかという問題が出てくる。山形県の合併では全部一県で一つの組合になっていますよ。だけど、現地へ行ってみれば、もとの各組合でそれぞれ漁業権の管理をやっている。行使もやっている。そういう形でいいのかどうかという問題がある。これは、漁協問題をもう一回、制度改革をやるんであれば、整理してきっちり位置づけをしなければならない。ただ合併はいいという話だけではないんです。その辺が、非常に経済的に難しい条件の中で、漁協の存立条件は何かという問題につながってくる。その中で漁業権管理の問題はどうすればいいのか、漁業法の問題として出てくるし、非常に難しいですよね。それは今度、大いに検討してもらって、方向を出していただきたい。ただ合併だけ進めればいいという問題ではないという気がします。高橋さんによると、昭和8年のはまさしく経済事業の問題から、産業組合との分離の話ですから、その時は漁業権の問題はほとんど出ていないですよね。
長谷 経済基盤は産業組合に任せて、漁業組合は漁業権管理でいいじゃないかと、そういう理屈ですよね。
高橋 ところがだんだんと、当時の漁業組合が経済事業、特に共同販売事業を中心に伸びてきたでしょ。そうすると、金を借りるのに共販を握っていなきゃ。信用事業は信用組合で、魚の共販は漁業協同組合でというふうになっちゃっていいのかなと思った。
小沼 制度改革の時に、漁民公会の案を第二次案のところで出したのです。これは苦肉の策というか、司令部ががたがたいうので一つぶつけてみろというので。それほど熱を入れて漁民公会がいいという意味ではなかった。ただ、それが一晩でつぶれてしまうような話になった。私なんか、紙に図を描いてわかりやすいのをつくったんだけど、それは一回でこんなのはだめだよと。公的な管理という意味では、漁民公会は確かに理屈はいいが、そんなものが成り立つかどうか、結局それは漁協しかないという話になって、あっさりと終わってしまった。
高橋 アメリカの感じだと公的機関以外の私的な団体に公的権利を持たせることを嫌がるのではないですか、僕の感じだと。
松元 そうなんですよ。アメリカは私的な団体に公的権利を持たせることを嫌がったわけでしょ。
高橋 入会権なんで、いくら説明してもわからないんだから。世界にそういうものはないんだ、アメリカの農場を見ろと。
梶脇 ちょっと話は跳ぶかも知れませんが、入会と、昭和の新しい漁業法になった時に嫌った場所貸しとの線引きはある意味で難しいんだと思うんですね。「漁業制度の改革」を読むと、本人はやらずに場所を貸すことをものすごく嫌って書いているんです。ただ、一方で入会権は法制化をして現状慣習を含めて認めていこうという思想はあるんですが。そこらへんの場所貸しと入会権の線引きというのは、どういうふうに考えておられたのか、わかれば教えていただきたいのですが…。
高橋 それは、今後の生産力に関する考え方を整理してくれと僕は言ってるんですよ。今の線引き問題はもう一度、詰めておいて。入会漁場の中における単独の一つの生産力発展のための、何か奇妙な問題。思想がはっきりしない。
梶脇 本人が権利を持ってそこでやりつつ、一部分だけうまく融合をとってやりましょうというのが、ある意味では入漁権で、本人は権利を持ったけど、それは本当に場所代を稼ぐために権利を持っただけで、本人はやる気がないというのが昭和漁業法で嫌った思想なのかな。ただ、形式的にはあっても、実際はわからないですね。
黒萩 わからないし、そういうのは変質していきますね。最初はそうだったとしても、途中から場所貸しになることが実際にある。
赤井 ありますよ。本当に場所が固定してしまって。ノリにしたって、貝にしたって、あります。
高橋 どうしたらいいもんかなあ。農地並みにちゃんとしてくれればいいがなあ。しっかりしない方がいいのかなあ。
赤井 先祖代々、ノリの漁場をちゃんと手入れしている。有明海の漁師ですけど。今はいろいろな公的事業があり、漁場の事業が使えないかというと、そんなことはしない、私は自分でやるという。
高橋 だから、もしあの漁場を公的資金を入れて大改良してさ。その合理化をはばんでいるのが今の制度だといわれるとしゃくにさわるんだけどな。
漁業税
長谷 個別の話なんですが、もしおわかりでしたら教えていただきたいのですが、漁業に関する税の問題です。これから国内の構造調整をしていくためには、どうしても基金的なものが必要で、全漁連の方も考えておられるわけですが、こういう時代ですから受益者負担というものを考えるわけです。お配りした水産業協同組合制度史(略)を見ていますと、これは戦後の話ですが、免許可料の撤廃運動の時に、全海苔が今までの漁業権税の10倍もの税はひどいじゃないかという趣旨で書かれている。明治漁業法下における漁業権税というのは、どんな実態だったのでしょうか。
高橋 あまり研究していないけど、ありました。
松元 ありましたか、漁業権に対する税金が。それは国税ですか、地方税ですか。
高橋 地方税です。各県平等というのではなくて、某県にあり、某県にはなしという感じでした。だって、財産税の対象にもなりました。それを、また財産税のいろいろなデータをとって、漁業補償の計算をしました。そういう因縁です。ところが、漁業税を今はやっているところはないんじゃないでしょうか。免許税を納めなければならなくなったのだから、漁業税はお断りだと。
漁業権を物権とみなしたことについて
高橋 財産税のときは対象にしました。なぜそうしたかというと、あれは全く、担保に入れるため。それはわかっていますね。そういうものを一切合切、担保にして金を借りるという運動があった。昭和恐慌のあとの農山漁村更生運動、その時代にかなりあったと思います。農業の組合と一緒になって、勧銀から借りたように記憶している。
黒萩 我々の時代になると、もう戦後50年も経ってしまいますと、漁業権に抵当権をつけるとかは、もう空文化してイメージも湧かないですね。あのときは、関連して漁業財団抵当法なんかもできたわけですよね。
一漁業権一漁業種類について
黒萩 ところで先ほどの1漁業権1漁業種類というのがずっと引きずってて、それは戦前の法律の解説本でも出てくるんですよね。戦後も、やっぱりそれを引きずっているようなところがあって、漁場計画の樹立の通達でも、特に一番最後まで残ったのが区画漁業権。今度の切替で担当された方々がそんなにこだわらない形にしたんですけど、魚種を冠して養殖業という名前をつけるんですね。ブリ類養殖業という名前で免許をする。ブリを養殖しなければ、それは無免許であるから、タイを養殖したときに、県が無免許として取締り、それが裁判になって福岡高裁から、そんなものブリであろうがタイであろうが何が最高200万円の罰金や3年の懲役につながるのか、どこが悪いのかといわれて県庁の人たちも困ってしまったわけです。私が担当している時にあった争いで、私も本心はそういわれればそうだよなと思ったことがありました。今は魚類養殖業というふうにしても、認めるようになっていますが。
高橋 それはそれでいいのではないですか。
黒萩 なぜ、そこまで固執したのかと思うのです。
高橋 それは固執しなければならない技術的な理論だったんでしょう。だって全然違うんだもの。それが漁業の発展だという今の考え方と、あまり騒ぎを起こしてもらいたくないという面からのやり方と大達いです。ブリの養殖といったらブリ以外は養殖してもらいたくない。変な騒ぎを起こしてもらいたくない。それを一緒にして、貝類もみんないいじゃないかとやられると、どうしようもなくなる。
黒萩 ひとつ想像していたのは、みなし物権にしたことによって、権利の内容というのを精一杯明確化しようというのがあって、あえてその方向でやってきたのかなと自分なりに想像していたのですが、そこはあまり関係ないですか。
高橋 それはむしろ、当時考えている漁業権の免許自体の内容を変えられることが騒ぎのもとになるという警戒心の方が強かったのではないでしょうか。今だって、変更しようと思えば変更できるはずですよ。それもしないで勝手にさ…。
長谷 今も変えようと思えば変えられます。漁場計画の手続きだとか非常に煩雑になってはいますが。
黒萩 例えばブリ養殖をブリ・タイ養殖とした途端に、漁場計画は立て直しですから。
高橋 それは困るという立場と、何とか新しい方向を伸ばしていきたいという立場とは大違いですよ。僕が言ったのは、なるべく騒ぎを起こしてもらいたくない、漁業調整だと。それだけの差じゃないですか。それを今の新時代でどうみるか、これは皆さんの問題です。
長谷 魚類から貝類になってはいかんでしょうが、そんなに変わるのは変更免許あるいは新規免許なのでしょうが、魚であればハマチであろうとタイであろうと、漁業者の臨機応変な対応でというのが今の考え方です。
高橋 うん。それでいいんだ。
小沼 今は定置はどうなっているの。
黒萩 いろいろありますが、雑魚定置なんていうのもあります。
梶脇 当時はブリしかとってはいけないという意味のブリ網だったのですか。
高橋 いや、それほどかたくはないです。