水産振興ONLINE
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2023年8月

処理水の海洋放出を漁業者は認めない

濱田 武士(北海学園大学経済学部教授)

○ 追い詰められる漁業者

後段でも述べるが、政府は福島県漁業協同組合連合会(以下、福島県漁連)に対して「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」と約束した。しかし、タンクの増設スペースに限界があり、貯水量が満タンに近づいているという理由で、2023年春にALPS処理水の海洋放出を始めたいとした。この決定は、そのときまでに「理解」を得られなくても、海洋放出を実施するというメッセージとも受け取れたのであった。このとき福島の漁業者からは「何を言っても時期が来れば海に流されてしまう」と諦めの声が聞かれた。

ALPS処理水の海洋放出は、何度も話を聞かされているゆえ安全性に問題はないと漁業者も頭では理解している。しかしALPS処理水は、燃料デブリに触れた高濃度汚染水に由来するため、どうしても海に流すことに抵抗感が拭えない。

その背景には、年に1、2度ぐらいという極わずかな頻度ではあるが、放射性セシウムの基準値を超えたクロソイなどが見つかる、ということがある。クロソイは現時点でも出荷制限指示の対象魚種である。それらは福島第一原発構内の港湾内で汚染したと考えられているが、特定はされていない。例えALPS処理水の放出との因果関係がはっきりしていなくても、ALPS処理水の放出後にそうした魚がこれまで以上に見つかり出すと、放射性セシウムが漏れているのではないかと疑う人も出てくるだろう。

漁業者はALPS処理水の海洋放出をめぐって以上のようなことも含めてさまざまなことを想像してしまう。風評の発生は怖い。この心境は海で生業を成り立たせてきた漁業者あるいはそれを販売している水産流通業者にしかわからない。

さらに漁業者は、海洋放出を容認すれば「海を売った」「カネで手打ちしたのか」と言われかねないし、容認しなければ「補償をもらうためにごねている」「廃炉に協力せず国益を損ねる行動をとっている」といわれる。海洋放出の反対を声高にいうと海洋放出後「自ら風評を誘発している」ということにもなる。いずれの判断をしても漁業者は苦しい立場にある。

実は海洋放出で紛糾したのは、ALPS処理水対策だけではない。1F構内の地下水の海洋放出についても過去に2度紛糾したことがある。陸側から原発に近づく地下水を汲み取って海に放出する「地下水バイパス計画」(2014年5月21日実施)と原子炉建屋に入る直前の地下水を汲み上げて同様に流す「サブドレン復旧計画」(2015年9月14日実施)をめぐってである。いずれも東京電力の職員が福島の浜を回り、怒号が飛び交う中、膝をつき合わせて説明を何度も繰り返したことで漁業者は納得した(2016年上映の山田徹監督製作「新地町の漁師たち」がその場面をドキュメント捉えている)。いずれの計画も県内全体が容認に至るまでに1年以上の時間を要している。それだけ東京電力に対する漁業者の不信感が強かったということである。容認に至った決め手は、海洋放出する地下水が安全だったからではなく、これらの計画が廃炉過程で重要なポイントとなる汚染水の発生量の抑制に必要な対策だったということである。

海は誰のものでもない。そのこともあって海の利用をめぐっては利用者の合意形成が重要となる。もちろん、これは法律に記されたものではないが、禍根を残さないためにも重要視される。業界の代表者(トップ)と手打ちするだけで海をいじってはならず、関わる漁業者それぞれが腹に落ちるまで話し合いをするというのが漁業界の常識。それゆえ合意形成には時間・コストがかかるため、なんでも案件にするわけにはいかない。そのことから、かかる計画が危険性の低い地下水の放水であっても、福島県漁連が簡単には受け入れなかったし、受け入れた後には関係漁業者の承認を得るまでに多大な時間を要したのである。

ALPS処理水の海洋放出については福島県の漁業者だけというわけにはいかない。県外の漁業者の理解も得る必要がある。福島県の漁業者だけが容認すれば、他県の漁業者との分断を招くからである。漁業者の数は福島県だけなら800人程度だが、県外の漁業者を含めると1万人以上になる。政府は呼ばれたら浜まで説明に行くとしているが、その数の漁業者を説得するとなると、1年ではすまない。だからといって、全漁連会長をどれだけ説得しても簡単に応じない。

そうした今の政府の対応は説得に本腰を入れているようには見えない。関係者の理解無しでは如何なる処分もしないとしながらも、2023年の夏までにALPS処理水を海洋放出するとしていることからうかがえる。このダブルスタンダートの状態は、放出までに「理解しない漁業者が悪い」という無言の圧力となる。世論調査では「海洋放出賛成が反対を上回る」結果が出ているxii。世論を敵に回しているという印象を持たせるような状態もできあがってきた。漁業者はより窮地に追い詰められている。

国策として進めるというのなら、漁業者の立場をよく理解し、社会に亀裂を発生させないようにするのが国の責務であるはずだが、理解を得られるような対応を政府はしているのだろうか?「海洋放出」をめぐる混乱は今や政治の責任であるはず。それを抵抗する漁業者に責任を転嫁するような形になっているのではなかろうか。

  • xii たとえば「処理水放出「賛成」4割 反対を上回る―時事世論調査」『jiji.com』(2 02 3/7/13 , U R L:htt p s: //w w w.jiji.com /jc/a r ticle?k =…2023071300764&g=pol)