水産振興ONLINE
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2023年8月

処理水の海洋放出を漁業者は認めない

濱田 武士(北海学園大学経済学部教授)

○ マーケットのメカニズムから見た「海洋放出」というネガティブストーリー

「風評」という言葉は便利だが、風評被害というと消費者を加害者扱いするということになる。本当に消費者は加害者なのであろうか。そんな単純な話なのであろうか。消費者に理解醸成を促せばすむのであろうか。震災後の調査を進めていく上で、原発事故の影響は「風評」ということばで括りきれない、マーケットの論理があることが解ってきた。「風評」被害などという用語の裏にある構造について以下述べていきたい。

そもそも流通業界は、消費者が判断する前に消費者よりも先回りして商品を仕入れている。実際には消費者が買うか買い控えるかは解らないが、経験則から判断して仕入れを考える。となると、少しでも売れ残る可能性のある商品よりも売れ残らない可能性のある商品を仕入れる。ある商品にネガティブな情報があれば流通業者はその商品の仕入れを避けるだろう。流通業者としては販売リスクがゼロに近い方が良いからである。流通業界の経営という視点から考えれば至極当然のことである。

ここで伝えたいのは、商品に纏わるネガティブなストーリーがマーケットにおける取引環境を変えるということである。通常、売り手と買い手の間では互いに牽制しながら適正な価格を探るプロセスがある。売り手は少しでも高く、買い手は少しでも安くなるように行動あるいは交渉する。取引の方法は流通段階で異なるが、マーケットの取引環境の中において商品に対するネガティブなストーリーは、明らかに売り手にとって不利となり、買い手にとって有利な材料になる。

たとえば、魚が安全であっても、海洋汚染が発覚した水域近くで漁獲された魚とそうではない同じ魚を並べられた時、前者にはネガティブなストーリーがつきまとう。同じ品質であればどう考えても流通業者は後者を選ぶ。前者を選ぶときはリスクを見込んで価格を下げる交渉をすることになる。

また魚は鮮魚として売れなければ加工品の原料として利用され、あるいは産地表示が必要のない惣菜の原料にもなる。だが、価格は落ち込む。そして加工品や惣菜の原料としても売れなければ更に価格が下がり、魚粉・魚油あるいは餌の原料になる。

先に述べた銘柄劣後はこうしたマーケットメカニズムを介して形成されている。そこで、ALPS処理水の海洋放出の問題を考えて見たい。

東日本大震災、原発事故、海洋汚染というネガティブストーリーは事故から12年が過ぎて人々の記憶から薄れてきている(図2がそれを物語っている)。それでも銘柄劣後はあまり改善されていない。そのようなとき、ALPS処理水が海洋放出されるとどうなるだろうか。改めて、魚に新たなネガティブストーリーを背負わせ、価格の引き下げ圧力を高めるトリガーになる。

価格の引き下げ圧力が低ければ杞憂として終わるが、高いとしたらどうなるか。ALPS処理水の海洋放出は福島産あるいは東北産の魚の販売を不利な状況に置くことに他ならない。産地の仲買がそうでなくても、流通過程の川中、川下に近づけば近づくほど、商品の選択肢が増えるだけに買い手の流通業者の主導となっていく。売り手の流通業者は不利だから福島産を扱わないという選択が始まる。こうした連鎖はマーケットの力学であってどうにもならない。市場取引は自由であるから、売り手は買い手の「買わないという行為」を告発することもできなければ、咎めることもできないviii。買い手の判断を悪いというと、今後の取引に影響する。

そして、無政府状態のマーケットの中で販売苦戦に悩まされる売り手側は「風評被害だ」と叫ぶしかなくなる。「風評被害だ」と叫べば、消費者を加害者とすることになる。

海洋放出するとしたら、このような状態に極力陥らないように、ネガティブストーリーがもたらす社会的インパクトを政府が高まらないようなふるまいをしなくてはならないが、海洋放出を強行するということになれば炎上する可能性が高い。

実際、2023年6月、ALPS処理水の海洋放出のカウントダウンが始まると同時に、一部の水産物の輸出産品のマーケットに異変が起こった。まず、香港、中国に輸出している北海道産のナマコが2023年6月中頃から価格が急激に落ち込んだ。価格の下落は様々なファクターに左右されるが、円安基調(本来価格が上昇する局面)の中での異変だったことから、禁輸措置を執るとする香港政府の表明にマーケット(の買い手側)が反応したのではないかと見られているix。またアメリカの韓国系米国人向けに輸出している養殖ホヤにおいて、輸出先から海洋放出前までに予定していた全てのものを出荷することを求められたx。まだ未成熟なのに慌てて水揚げして加工して輸出している。韓国が宮城産の水産物に対して禁輸措置をとっているため、アメリカの韓国人マーケットを漸く開拓した矢先のことであった。さらに、香港にあるアンコウ鍋を提供する日本食レストランの客足が香港政府の禁輸措置をとるという報道で急速に落ち込んだというxi。原料のアンコウは茨城県から輸出している。

これらの動きは限定的かもしれないが、ALPS処理水の海洋放出というネガティブストーリーにマーケットが反応し動揺した例として見ることができる。もしかしたら、マーケットはすでにネガティブストーリーの拡散によって買い手市場環境(供給超過な状態)に移行したかもしれない。政府は関係各国政府にALPS処理水の海洋放出の安全性に関する理解を求める努力をしているが、たとえ相手国政府に理解を得られたとしても、結局マーケットは無政府状態である。

この点も見通しが甘いのではないだろうか。

  • viii 実際に、震災後、小売業界では食品中における放射性物質に関して国の安全基準を大きく下回る基準を独自に設けた。これに対して売り手側はただただ従うしかなかった。国の基準ではセシウム100bqであるのに、25bqとか、10bqとか、0bqという基準などを設けた小売業界が少なくなかった。
  • ix 「道産ナマコ価格に異変 処理水放出計画への中国の動向が影響か」『毎日新聞(電子版)(2023/7/13, URL:https://mainichi.jp/articles/…20230713/k00/00m/040/093000c)
  • x 「「風評被害はもう起きている」 処理水放出計画に水産業者は「漁業の未来を考えて」と訴える」『東京新聞(電子版)』(2023/7/4, URL:https://www.tokyo-np.co.jp/article/260952)
  • xi 「アンコウ輸出、半年でピンチ 処理水放出「海外1号店」に暗い影」『毎日新聞(電子版)』(2023/7/15, URL:https://mainichi.jp/articles/…20230715/k00/00m/040/003000c)