水産振興ONLINE
642
2023年8月

処理水の海洋放出を漁業者は認めない

濱田 武士(北海学園大学経済学部教授)

○ 「新たな風評」だけで許される問題ではない

ALPS処理水の風評影響は「新たな風評」と表現されている。「新たな風評」がなければ問題がないという発想である。ならば「新たな風評」をどう捉えていくのか。また、「新たな風評」が発生しなくても、ALPS処理水の放出で「原発事故の影響が払拭されていない現状が固定化されてしまう」という問題がある。つまり、復興過程にある福島県の漁業に対する「原発事故の影響」をさらに引き延ばしてしまうということである。

筆者は震災後「風評」被害の実態を探るべく調査を行ってきた。その結果、厳密な検証ができず確定的な結論とはならないが、福島産には原発事故後負のブランドイメージがつきまとい、産地銘柄の序列が劣後している、のではないかと考えた。原発事故の影響で水産物流通構造が大きく変わり、福島県の水産物は、競争相手となる他産地の魚があればそれが優先的に販売されていく傾向にあった。他産地で不漁に見舞われている魚種では福島産でも高値で取引されるが、他産地の供給が十分あると震災前のような価格形成が期待できない。

たとえば、2016年の東京中央卸売市場のデータによると、コウナゴは他産地の不漁で福島産が震災前(2010年)と比べると販売好調であったが(表1参照)、マガレイはその逆で販売が低調になったことがわかる(表2参照)。なお、株式会社三菱総合研究所の調査によると、この時期(2016年頃)において「福島県産の食材をためらう東京都民」の割合が自分で食べる場合に26.3%(家族・子供に食べさせる場合は35.0%)と全国調査を行っている数値と比較して高かったvii

表1 東京都中央卸売市場(築地市場)における出荷地別コウナゴ(煮干し製品)の
取扱数量と平均価格の比較(震災前の2010年と2016年)
表1
資料:東京都中央卸売市場

表2 東京都中央卸売市場(築地市場)における出荷地別マガレイの
取扱数量と平均価格の比較(震災前の2010年と2016年)
表2
資料:東京都中央卸売市場

こうした状況のもとでのALPS処理水の海洋放出が、産地銘柄の序列回復を遅らせるという可能性は否めない。それは「新たな風評」という形では表れない。このことは、魚種ごとにマーケットポジションなどを丁寧に調べていかないと抽出できない。

他方、政府は、海洋放出に伴い「新たな水産物の販売不振」が生じた場合、風評の影響をどのように判定するのかを検討している。例えば、行動計画にある「対策7.安全証明・生産性向上・販路開拓等の支援」である。この中の目玉となっているのは、当初、価格が落ち込んだとき国が買い取るとも受け取れるニュアンスだった支援策である。実際は、価格が落ちこんだとき漁業者の出荷物を漁業者団体が買取り、それを政府が支援するというものであった。それはともあれ、「価格が落ち込んだ」ら何でも支援するわけではなく、支援は発動基準をクリアした場合に限定したものとなった。この基準は「海洋放出に係る政府の基本方針決定(2021年4月)」以前と比較して「7%以上の価格下落」というものである。

しかし、「7%以上の価格下落」だけではそれが風評の影響かどうかは判断できない。そもそも価格は国内外の競合産地の供給状況、輸入量や為替相場の値動き、越年在庫、需要の動向で変化しており、当該魚介類が風評の影響をどの程度どのように受けているのかを特定するのは極めて困難だからである。たとえば、本来、円安や供給不足で魚の価格が上昇局面なのに、買い控えで価格上昇が抑え込まれたとき、「7%以上の価格下落」でなくても本来それは風評の影響を受けているはずなのにそのような判定にならないということになる。しかも、肉の需要が高まり水産物の内需は縮小基調が強まってきたし、これからも強まる傾向にある。より状況は錯綜する。

これらのことを踏まえると、ALPS処理水の海洋放出の影響を価格で決めていくことは難しい。円高に振れると、輸入量が増加し、国内産の価格は下落する。そのとき福島産が買い控えられたとき、どのくらいが輸入の影響なのか、どのくらいが海洋放出の影響なのかは判断できない。しかも、2020年からはコロナ禍の影響が、2022年2月からはロシアによるウクライナ侵攻による影響が出ており、価格を攪乱する要素が多すぎる。基準を厳密に考えれば、考えるほど、基準が複雑になり、対策が対策でなくなるという話になりかねない。

政府は「新たな風評」ということだけに責任を負うというのではなく、今なお続く原子力災害としての「原発事故の影響」として捉え直すことが肝要である。

  • vii 株式会社三菱総合研究所「東京五輪を迎えるにあたり、福島県の復興状況や放射線の健康影響に対する認識をあらためて確かにすることが必要(その1)」(2017年11月14日)(URL:https://www.mri.co.jp/knowledge/column/20171114.html)