○ 「風評」と対峙する政府の対策はどうか
そのような中、日本政府は前述のとおり、2021年4月13日にALPS処理水の海洋放出を実行することを決めた。放出時期は2023年春とされた。そこに向けて、2021年末に「ALPS処理水の処分に関する基本方針の着実な実行に向けた行動計画(案)」を公表した。これをもって漁業者や関係者に誠意を見せたが、今のところ漁業者への説得材料にならなかった。
この行動計画は多くの関係省庁が関わり大規模に行われる。しかし、その計画通りに行われたとしても、国内外に広がるALPS処理水の海洋放出のショックをどこまで弱められるのかはわからない。そこは未知である。
たしかにALPS処理水は海洋汚染の原因となったセシウムやストロンチウムなどが大量に含まれた高濃度汚染水とは明らかに違う。ALPS処理水の処分は、トリチウムを多く含むALPS処理水をそのまま海洋放出するのではなく、原発の排水基準を大きく下回る濃度基準で放出するという方針であることから、理論的には健康被害に与えるリスクはかなり引き下げられている、といえる。
とはいえ、漁業者には懸念がある。理論的に安全だとしても、それが正しく運用されているかどうかである。多くの漁業者は安全性よりもこの点において疑念をもっている。国や東京電力を信じられるかどうか、ということである。
たとえば、2013年6月26日に原子力規制委員会において東京電力は原発建屋内の汚染水が港湾内の海水に影響している可能性が指摘され「判断できない」と応えていたのだが、与党が圧勝した参議院選挙が終わった次の日(2013年7月22日)にその可能性を認めた。真相はわからないが、都合の悪いことは答えないという印象を与えた。また、未だ原発構内の港湾内では基準値を超える魚が捕獲されるゆえ、漁業者が東京電力や国に対してその問題の解決を求めてきたが解決策を見いだせていないことがある。2023年5月にも港湾内で捕獲されたクロソイから基準値の180倍のセシウムが検出されているiv。雨水が放射性物質に汚染された地表やがれきをつたって「K排水路」に集まり、その水が港湾内に流れ込むので、魚が汚染すると考えられている。もちろん、この話は漁業者に伝わっている。東京電力は手を打っているが、その問題が解決されないのである。さらには、ALPS処理水の排出施設の工事を説明しないで着工するなど配慮に欠く進め方をしていた。排出施設はシールドで掘削して海底にトンネルを造成して、その中に排出管を敷設して沖合に出すものだが、その水域の漁業権が放棄されていることを理由に説明を怠っていたのであった(海洋土木工事を行う際は近隣の利害関係者の了解を得てから実施するものである)。このようなことがあるゆえ、漁業者は東京電力と国(=経済産業省)に対して不信感を持っている。
では、海洋放出が安全に運営されるとして次の問題となる国民の理解についてはどうなのか。理解醸成を広げるに必要な放射性物質の危険性や稀釈するALPS処理水の安全性について国民をどこまで納得させることができるのであろうか。
原発の温排水に関連する法定告知濃度など基準値の40倍に稀釈するというところはポイントであるが、ではその基準値が安全という根拠をどう理解するのか。それはやはりBqやmSvを使って年間の被曝量から理解するしかない。そして、その危険性の違いを聞いて、どのくらいの人が内容を理解できるだろうか。そもそも、原発の温排水に放射能物質が微量でも溶け込んでいたという事実を知っている人は極僅かだったのではないか。となると、安全であることを科学的に理解していくには時間を要する(筆者もかなり苦労した)。結局、理解しようという気があっても難しいため、海洋放出を好意的に受け止めて頭の中に「ALPS処理水は安全」という言葉をすり込むしかない。科学的解釈を単純化してわかりやすい説明にして内容を鵜呑みしてもらうということになる。政府はそのような人をどれだけ増やせるかに注力するしかない。
他方、2022年1月に政府がインターネットを使って行った「ALPS処理水の安全性等に関する国内外の認識状況調査v」の結果からは次のことがいえる。「現時点では放射能の被ばくによる健康被害は認めらないこと」「事故後の被ばくを鑑みても、今後の健康被害は考えにくいと評価されていること」を知っているかという問いかけに対して日本では「知らない」または「知っているが信じられない」という2つの回答(併せて)が7割以上を占めた。東日本大震災後に政府は福島産の安全性についてかなりのリスクコミュニケーションの努力を払ってきたが、この結果である。海洋放出が実施されるとして実施後に「福島産の食品」を購入するかという問いかけでは購入しないと答えたのは14.7%であった。放出前が13.3%だったので、海洋放出によって購入しないという人は極僅かに増えるだけであった。しかし、購入すると答えた人たちが科学的に安全だということを理解して安心して購入すると判断しているとは言い切れない。震災から10年たっても、安全であるという認識で「福島産の食品」を購入するという人が3割にも満たないからである。国によるリスクコミュニケーションの威力は強くなかったということである。
とはいえ政府は、海洋放出までの間に絶え間なく、CMなども使って(そのための事業も組まれている)広報活動や丁寧なリスクコミュニケーションを進め訴えていくとしている。安全性を訴えることは大事な事ではあるが、過去の「風評被害」といわれた事例を辿ってみると、「安全である」という政府発表が「風評」を封じ込めたという評価は見当たらない。むしろ政府発表が「買い控え」を招いたこともある。もちろん、政府発表で安心する消費者もいたであろうが、政府発表の内容に疑念があったり、解りにくかったりした場合、真偽を問う報道が拡大すれば「安心」が遠ざかる可能性すらある。
過去の事例を見ても「安全」だという科学的評価を伝えても直ぐに「安心」は戻ってこなかった。東日本大震災後、しばらく「心配」する状態が続いた。他の風評被害の事例もそうであったが「安心」を促したのは「時間の経過」であった。時間のスケールが数ヶ月や数年で元に戻った他の事例と比べて長いが、「福島産の食品」においてもそうである。消費者庁が継続的に調査し、公表している「風評に関する消費者意識の実態調査vi」の結果がそのことを物語っている(図2参照)。科学用語を使って「安全」で「安心」だということを国民全体に速やかに浸透させるというのは現実的ではないといえよう。
※2 青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県
※3 茨城県、栃木県、群馬県
※4 青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県、長野県、新潟県、静岡県
以上を踏まえると、政府ができることは長い年月をかけて理解醸成を進めるべきであったが、国民に向けての政府対策が本格的に行われたのは2022年からである。そして2023年の春頃には海洋放出するとした。こうした政府行動から言えるのは、未だ続く「原発事故の影響」をあまく見ていたということである。
私見であるが、「ALPS処理水の安全性等に関する国内外の認識状況調査」の結果で海洋放出後に購入しないという人があまり増えないのは海洋放出の必要性に対して理解を示したと捉えることができる。そうであるのならば、「ALPS処理水の海洋放出」の実施を国民に理解してもらうには、「ALPS処理水が安全」だからではなく、「海洋放出がなぜ必要なのか、なぜ海洋放出という手段でないといけないのか」を、誠意をもって国民に説明することの方が効果的であると考えるが、政府はそれをしない。
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