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2022年12月

水産研究125年の歴史

生田 和正(水産研究・教育機構 理事)  上原 伸二(水産資源研究所 企画調整部門長)  鈴木 敏之(水産技術研究所 環境・応用部門長)  下川 伸也(水産大学校 校長)

第1章 水産研究125年のあゆみ

水産研究・教育機構 理事 
生田 和正

水産研究・教育機構の歴史を中心に、明治以降125年間、水産研究の歴史の歩みをご紹介します。

明治15年(1882年)、大日本水産会が設立され、明治21年(1888年) 水産伝習所が設置されました。そこで、日本の水産を担う人たちを育成するという大きな試みがありました。

明治30年(1897年)、明治政府の勅令により農商務省の中に水産講習所が作られました。これが今の水産研究・教育機構及び国立大学法人東京海洋大学の前身です。当時は職員21名で発足し、近代日本の水産研究の礎を築きました。

当時の勅令書は、「水産講習所官制・御署名原本・明治三十年・勅令第四十七号」として国立公文書館にデジタルアーカイブとして残されており、明治天皇陛下直筆の署名、それから大河ドラマ等で皆さんご存じ、幕末から明治の元勲である松方正義内閣総理大臣(写真1)、榎本武揚農商務大臣(写真2)が直筆でサインをしており、当時から日本国として水産研究に臨む志の高さが非常に大きなものであったことがわかります。

写真1 松方正義内閣総理大臣
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/
写真2 榎本武揚農商務大臣
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/

水産講習所は、現在の江東区越中島に設置されました。この水産講習所の中に伝習部が設置され、これが後の東京海洋大学になりました。それから、試験部が後の我々水産研究・教育機構になり、その後さまざまな研究部が設置されました。また、編纂部が設置され、研究成果を広く世の中に示すため、足跡を書籍に残し一般公開するということが当時から行われていました。

この時期、明治政府による遠洋漁業奨励法によって、捕鯨やトロール漁業等、日本の経済を支える中心的な基幹産業が発展しました。漁業基本調査も開始され、わが国周辺の調査がこの頃から行われました。これは、今の海洋調査に劣らない内容です。調査には調査船が必要ですので、天鷗丸という28メートル程の小さな船を国が製造し、我が国周辺の海洋調査を始めました。また、地方にも水産試験所が設置され、愛知県を皮切りに、日本国内、さらに外地にも試験研究機関がつくられました。そして、地方と国が手を組み、日本の水産資源を管理してきました。

天鷗丸は木造船で240馬力という非常に小さな船ですが、日本一周の調査航海を三回も行い、日本周辺の海洋・漁業調査を行いました(図1、写真3)。4年間の調査で使命を全うしましたが、将来の日本の水産業にかける我々の先人たちの強い意欲を感じます。

図1 天鷗丸によって行われた日本周辺の観測点
黒肱 善雄(1979年)より転載
写真3 天鷗丸(1919~1924)
我が国初の海洋調査船
木造、全長 28.8m、幅 7.77m、深さ 3.15m、総トン数 161トン、240馬力

黒肱 善雄(1979年)より転載

そして、この天鷗丸の後に初代の蒼鷹丸がつくられました(写真4)。現在の基幹船で、横浜に停泊している蒼鷹丸は4代目になります(写真5)。

写真4 初代蒼鷹丸(1925-1955)
写真で見る中央水産研究所60年のあゆみ(2010年)より転載
写真5 現(4代目)蒼鷹丸(1994-)

昭和4年(1929年)に農林省水産試験場が設置され、そこでは現在でも十分通用するような研究を行っていました。そのときの重点事項を見ると、漁獲生産費の低減、新漁場の開発、養殖生産品目・輸出品目の製造開発、海外市場への進出等、まさに今に通ずるような研究をしていました。

高等教育では、東京帝国大学や北海道帝国大学に水産学科が新設され、日本全体として、これから水産を担う人を育てていくという機運が高まり、当時朝鮮半島の釜山には、後述のとおり水産大学校の前身となる釜山高等水産学校が建設されました。

戦後、GHQにより日本の漁業の民主化、漁業制度の改革が進められ、農林省に水産庁が設置されました。同時に、日本周辺海域を北海道から西海、淡水で計8区に分ける海区制をとり、それぞれに研究所が設置され、今の機構に通ずる基本的な研究体制が作られました(図2)。

図2 水産庁の研究所等

当時は真珠が重要な日本の輸出製品だったので、真珠研究所が三重県に設置されています。また、官営さけますふ化場は、北海道さけますふ化場という形で、農林省直轄の事業場として設置されました(図2)。

様々な大学もつくられました。釜山水産専門学校(旧釜山高等水産学校)(写真6)は水産講習所の下関分所として第2水産講習所と名前を変え、現在の水産大学校(写真7)に繋がっています。第1水産講習所とよばれていた水産講習所は、後の東京水産大学となり、越中島の東京商船大学と合併し、現在の東京海洋大学となります。

写真6 釜山水産専門学校
写真7 水産大学校(下関市)

高度成長期を迎え、当時日本は世界の水産大国ということで、多くの水揚げがありました。

水産研究を強化するため、勝鬨にあった東海区水産研究所を横浜に移設、中央水産研究所(写真8)として、日本の水産研究を統括する機能を持たせました。

写真8 元中央水産研究所(現在は横浜庁舎)

それから、遠洋漁業が発展し、南海区水研を廃止、遠洋水産研究所を清水に設置し、そこで海外での遠洋漁業にかかわる研究を行いました。

昭和46年(1971年)には海洋水産資源開発センターができ、世界中の海の漁業資源を調査するという非常にスケールの大きな研究を行ってきました。

同時に、養殖生産についても拡大していったため、昭和54年(1979年)に三重県に養殖研究所ができました。また、全国に漁港整備が進むなどし、同年茨城県神栖市に水産工学研究所が設立されました。同年(社)日本栽培漁業協会も設立されています。

その後、国連海洋法条約が定められ、水産資源は排他的経済水域(EEZ)の中で各国が資源管理する時代となりました。そのために、EEZの資源管理と生産量向上が重要課題となり、平成9年(1997年)にTAC制度が導入されます。当時は、遠洋に繰り出していた漁場に入漁できなくなり、遠洋漁業が縮小しつつありました。そうした政策的な影響を受け、水産研究所を再編し、平成10年(1998年)には総漁獲可能量(Total allowable catch 、TAC)を算出するための資源評価研究を実施するようになりました。

資源増殖部は、当時の海区特性に合わせた漁業を振興するため、海区水産業研究部となりました。瀬戸内海では南西水研を瀬戸内海区水産研究所に変更し、赤潮、水質汚染等、沿岸環境についての研究を一手に引き受ける形となりました。また、平成23年(2011年)には遠洋水産研究所は国際水産資源研究所となりました。

昭和37年(1962年)に、ワトソンとクリックがノーベル賞を取り、DNAやバイオテクノロジーの研究が盛んになり、水産の分野でも分子生物学が飛躍的に発展したことから、平成16年(2004年)に中央水産研究所に水産遺伝子解析センターが新設されました。

それから、国立水産関係機関の独立法人化が進められます。平成13(2001)年に水産庁の研究所は独立行政法人水産総合研究センターへと改組され、その後、サケマス資源管理センター、海洋水産資源開発センター、日本栽培漁業協会とが次々と統合され、そして直近では平成28年(2016年)に水産大学校と合併し、今の水産研究・教育機構となります(図3)。

図3 国立水産関係機関の独立行政法人化と変遷

これまで我々が続けてきた様々な研究成果として、まず、水産研究・教育機構というと皆さんが思い浮かぶものはニホンウナギの完全養殖ではないかと思います。平成21年(2009年)に世界で初めてマリアナ海溝のウナギの産卵場所を突き止め、時を同じくして、完全養殖を達成し、人工的にウナギの種苗がつくれる技術を世界で初めて開発しました(図4)。

図4 水産研究・教育機構の研究成果の数々

またクロマグロは完全養殖を近畿大学が行って来ましたが、さらに研究を進化させるため、いまの長崎庁舎にクロマグロ産卵のための陸上養殖施設をつくり、そこで初めて大量のクロマグロの受精卵を生産することに成功しました。また、日本栽培漁業協会との合併により、ブリの人工種苗生産、マダコの人工種苗生産といった技術が非常に進展しました。

ゲノム研究が進み、様々なゲノム編集技術や、育種技術についても我々のもとで世界最先端の技術が進んでおります。

海洋放射能調査について、昭和29年(1954年)アメリカの水爆実験で第五福竜丸が被曝する事件がありましたが、我々は直ぐに現場に駆けつけ調査を続け、今でも毎年放射能調査を行っており、この体制のおかげで、平成23年(2011年)の東日本大震災と原発事故の際、すぐに初動対応することができました。

日本海で大型クラゲが発生し、非常に大きな漁業被害を出しましたが、これについては東シナ海、日本海の環境を管理するため、日中韓3カ国で共同調査をはじめました。

またこういった海洋環境を予測し、広く国民に知らせるためにFRAROMS(現在はFRAROMSⅡ)というモデルが開発され、これをホームページで公開し、常に我が国周辺の海洋状況を予測できるようにしています(図5)。

図5 水産研究・教育機構の研究成果の数々(2)

平成30年(2018年)、水産庁が戦後70年ぶりに漁業法を改正し、水産資源の適切な管理、水産業の成長産業化を両立させるため、新しい政策が打ち出されました。それを受け、かつてはそれぞれの海区に合わせて研究機関がありましたが、それを令和2年(2020年)の4月に統合し、横浜市に本部を置く水産資源研究所、それから、長崎に本部を置く水産技術研究所の二研究所体制となりました(図6、7)。

図6 漁業法の改正による水産研究体制の再編
図7 水産研究・教育機構の組織再編(2020年7月)

水産資源研究所では、自然界がもたらす水産資源を常に変動する自然環境と経済社会の状況下において、最大かつ持続的に利用するための研究開発を行います。

水産技術研究所では、安全な水産物の安定供給を支える生産システムの効率性と安全性の向上及びその高度化を目指した研究・技術開発を行います。

開発調査センターでは、社会・産業ニーズを踏まえた、機構内外における研究・技術開発成果について、生産から流通・販売までを含めた一体的な実証化調査を通じて実用化等を図ります。

図8 水産研究・教育機構の各組織の役割
図9 水産研究・教育機構の事業所と船舶一覧

水産大学校では、水産の技術や経営、政策等に関する幅広い見識と技術を身に着けた人材、実学に立脚した人材、創造性豊かで水産現場での問題解決能力を備えた人材、水産界で求められる船員を育成します。

今、SDGs(持続可能な開発目標)が世界各国で叫ばれておりますが、我々の研究は、ほとんどがこのSDGsの項目に該当します(図10)。

図10 未来に向けて当機構が行うべき取り組み

一番重要な事は、日本が水産物をいかに持続可能な形で生産できるかです。これには、資源の評価・管理、持続可能な養殖生産技術の開発も重要になります。代替飼料タンパクをどう確保するかも喫緊の問題として我々に突き付けられています。新しい養殖現場の展開、水産物の安全安心の確保、自給率向上も大きな課題です。

また、海洋環境、地球上の食糧危機への対応ですが、例えば漁船の燃料を電気や水素に切り替える事や二酸化炭素を海藻に吸収させるブルーカーボンの取り組みは今後ますます重要になるでしょう。

社会経済に目を向けると、少子高齢化、景気の低迷、グローバル化への対応にどれだけ貢献できるか、例えば省エネ、省コスト、省力化、それからスマート水産業に関する研究が重要になりますし、水産物の輸出をどう拡大するかについても取り組んでいく必要があります。

我々が海から多様な恵みをいつまでも享受し続けるために水産研究、教育に取り組んでまいりますので、これからも皆様のご支援ご協力よろしくお願い申し上げます。

参考文献

  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」(2022)(https://www.ndl.go.jp/portrait/).
  • 黒肱 善雄(1979年) 農林省船舶小史(6),東海区水産研究所業績C集「さかな」, No.22:45-58.
  • 写真で見る中央水産研究所60年のあゆみ(2010年) 中央水産研究所同窓会.
著者プロフィール

生田 和正いくた かずまさ

【略歴】 増養殖分野の研究者。水産庁に出向し、参事官を務める。水産総合研究センターでは研究推進部長、瀬戸内水産研究所の所長等を歴任し、2022年4月より水産研究・教育機構の経営企画担当理事に就任。