3. 東京湾の生物環境と漁業
大きく改善したものの近年は横這い
こうした埋立や開発、そして強度の利用負荷により、東京湾の生態系は大きく変化し、そこに住む生物に大きな影響を与えた(片野ら編2019)。まず、沿岸からは多くの藻場や干潟、自然海岸が消失してしまった。たとえば横浜市の場合、海岸線約140kmのうちで自然海岸は金沢区野島の数百mほどしか残されていない(富田・小林1994)。干潟の面積は1950年代以降に8000haが失われ、約8分の1にまで縮小した。東京湾の流域(江戸川、荒川、隅田川、多摩川等の流域面積約8000km2)には日本人口の4分の1が生活しており、その巨大な負荷が東京湾に流れ込んでいる。これら複数の要因が重なり、とくに1960年代や70年代を中心に、東京湾の水質と生物環境は著しく悪化した。
その対策として、これまで国・自治体により様々な施策が導入され、特に排水の総量規制や下水道の整備による流入負荷対策は大幅に強化された。しかし、これまでに放出された海底の蓄積物や、近年増加している大雨などにより一時的に放出される生下水の影響などから、残念ながらいまだ問題の全面解決には至っていない。現在でも夏になると東京湾湾奥部から中央部にかけて、酸素濃度が2mg/L以下の水域「デッドゾーン」が形成される。これは、富栄養化によって異常に増えたプランクトンが死滅して海底に沈み、そこでバクテリアの分解によって海水に溶けている酸素が消費されるためである。さらに北東風が吹き、東京湾奥の表層水が沖に移動すると、海底にあった貧酸素水塊が湧昇し、そこに含まれる硫化物が空気に触れて青っぽい乳白色になるとともに、異臭を発生させる。これが青潮(苦潮)と呼ばれる現象である。
現在、東京湾の生物環境については、様々な指標が設定され総合的なモニタリングが行われている。たとえば東京湾再生推進会議(後述)の報告書では、透明度やCOD、赤潮発生件数、生物生息場の面積・箇所数(干潟、浅場、砂質海浜、塩性湿地、磯場・礫場)、DO濃度(底層)、硫化物濃度(底層)、青潮の状況、都市圏における雨水浸透面の面積、下水処理施設の放流水質などについての推移がまとめられている(東京湾再生推進会議2013 , 2019)。一部の指標は改善しており、たとえば生物生息場の面積は2013年から6年間で80ha増加し、下水処理施設の放流水質や住民一人当たりの負荷量も減少している。さらに東京湾環境情報センターのウェブページでは、浦安沖、検見川沖、千葉港第一号灯標、川崎人工島における水温、塩分、pH、DO、クロロフィルa、濁度などのリアルタイム水質観測結果が随時更新されている(https://www.tbeic.go.jp/)。また2008年より市民や企業、研究機関、行政機関が一斉に東京湾の水質や生き物の調査をおこなう「東京湾環境一斉調査」が行われ、その結果は「東京湾環境マップ」として毎年発表されている (https://www.ysk.nilim.go.jp/kakubu/engan/kaiyou/kenkyu/map-sympo.html)。
なお、近年特に注目すべき現象として、よりグローバルな地球温暖化現象の影響がある。たとえば内房総の南部に位置する館山市では、ハマサンゴ科やキクメイシ科、ミドリイシ科などのサンゴとそこに生息する熱帯性の魚類も確認されている(たとえばNPO法人OWS(Oceanic Wildlife Society)のウェブページ参照、https://www.ows-npo.org/)。
東京湾の漁業と江戸前
江戸期以降、東京湾で漁獲される魚介類は「江戸前」と呼ばれ、種類の豊富さと味の良さから一つのブランドを形成してきた(中央ブロック水産業関係研究開発推進会議東京湾研究会、2013)。その漁獲物を用いて、にぎり寿司や天ぷら、うなぎのかば焼きなど、いわゆる江戸前料理が発展した。1643年に出版された日本初のレシピ本である「料理物語」をみると、全20章のうち第1章に海の魚71種、第2章には磯草25種が掲載されている。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「江戸自慢三十六興」や「名所江戸百景」では、当時の漁業の様子が生き生きと伝わってくる。一見の価値があるのでぜひ読者にお勧めしたい。
(歌川広重作、国立国会図書館デジタルコレクション)
当時の魚河岸の様子が描かれている。
(三代歌川豊国、二代歌川広重作、国立国会図書館デジタルコレクション)
昭和初期ごろの東京湾では、70種類以上の漁具・漁法が使われており、主に5m以浅の干潟・浅海域において多様な魚介類を対象とした操業が行われていた。しかし上述のように、これらの海域の多くは埋め立てにより消失し、近年の東京湾漁業は厳しい状況が続いている。以下では、江戸PTのメンバーでもある千葉県漁業協同組合連合会等を中心に2020年4月に結成された「東京湾関係漁連・漁協連絡協議会」が環境省中央環境審議会において発表した資料をもとに、現在の東京湾漁業の概要を簡単に紹介する(詳しくは、環境省ウェブページのプレスリリースを参照されたい:http://www.env.go.jp/press/108319.html)。
まず東京湾内の就業者数は1968年の23,454人から2008年の4,516人に、漁獲量は1960年の18万7,928トンから近年は2万トン以下にまで減少した。現在の主な漁業は、ノリ養殖業(千葉県市川市・船橋市・木更津市・富津市、神奈川県横浜市・横須賀市など)、採貝漁業(東京湾全般)、潜水漁業(千葉県富津市、神奈川県横須賀市)、巻き網漁業(千葉県船橋市・富津市・館山市、神奈川県横浜市・横須賀市)、小型底引き網漁業およびアナゴ筒漁業(千葉県、神奈川県)、定置網漁業(千葉県)などである。
ノリ漁業は、有名な浅草海苔をはじめ、東京湾で古くからおこなわれている代表的な漁業種類の一つである。しかし近年、特に2015年ごろからは不作が続いており、その原因として栄養塩不足や高水温、クロダイによる食害などの影響が指摘されている。採貝漁業も盛んにおこなわれているが、千葉県のアサリ漁業をみると、過去30年間ほどにわたり生産減少が続いており、水温上昇やえさの減少、台風や大雨による急激な出水の増加、捕食圧の拡大などの影響が懸念されている。まき網、小底、アナゴ筒などの漁船漁業では、スズキ、カレイ類、マアナゴ、マダコなどが採捕されている。近年、カレイ類、シャコ類、アナゴ類の漁獲減少が報告されているが、その要因としては、夏季の貧酸素水塊が底生生物の移動や生息域を分断している影響や、餌料環境悪化などの可能性が指摘されている。こうした状況に対処するため、東京湾の漁業者は海底耕うんや保護区の設置、駆除、放流などの活動を行っているほか、市民と協働したアマモ場再生活動も盛んに進められている(木村2016)。また、東京湾における環境と漁業について、より詳しく正確な関係を把握するために、最新の科学的手法を用いた分析と知見の蓄積も続けられている(水産資源研究所2010~2022)。