水産振興ONLINE
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2022年9月

東京湾と魚食の再生にむけて

牧野 光琢(東京湾再生官民連携フォーラム江戸前PT長、東京大学大気海洋研究所教授)

2. 東京湾の歴史と現状

古代から続く人と東京湾のつながり

東京湾における人と水産物のかかわりは非常に古い(東京湾海洋環境研究委員会編2011、河野博2022)。たとえばJAMSTEC横須賀本部のすぐ北側にある史跡・夏島貝塚は、約9000年まえ、縄文時代早期という日本最古級の貝塚で、ハマグリ、アサリ、カキなどの貝殻や、マグロ、ボラ、クロダイなどの骨が大量に出土している。その周辺からは、夏島式土器や鹿角製の釣り針、やじり、石斧のほか、炉跡なども発見されており、人々がここに定住していたことを示している。また、明治10年にエドワード・モース博士が東京帝国大学の御雇教師として来日した際、横浜港から東京に向かう汽車の窓から発見したといわれているのが、史跡・大森貝塚である。日本考古学発祥の地ともいわれているこの貝塚は、縄文時代後期から晩期(約3500~2400年前)の貝塚で、そもそもここで発見された縄目模様の土器が“縄文時代”という名前の由来である。

潮回りや干潮の時間帯などによる制限が大きいにもかかわらず、東京湾沿岸に多くの大型貝塚が密集して存在できた要因の一つは、干潟の利用や資源管理等に関する一定のルールが存在したからだという(田邉2022)。千葉市にある特別史跡・加曽利貝塚は日本最大規模の貝塚であり、魚の骨や人骨、住居群跡などが発見されている。出土したハマグリ貝殻の構成を詳細に調査・分析した樋泉は、縄文時代にすでに未成熟貝に対する捕獲制限などの配慮があったことを指摘している(樋泉1999)。

江戸時代になると、当時世界最大の都市のひとつでもあった江戸の人々の旺盛な需要(胃袋)を満たすため、東京湾では多くの漁具・漁法が発達するとともに、佃煮や握り寿司、てんぷらなど、江戸前の魚食文化も発展した。律令要略に記された「磯漁は地付根付次第なり、沖は入会」という基本制度の下、東京湾でもさまざまな漁業調整や資源管理が行われたことが分かっている。そのうち特に有名なものは、1816年の江戸内湾漁業議定書であろう(東京都内湾漁業興亡史編集委員会1971、八木2017)。この議定書は、東京湾で漁業を営む武蔵、相模、上総の国の44浦の名主・漁業総代等が神奈川浦(現在の横浜市神奈川区)に定期的に集まって、漁具・漁法の制限や規約書の作成などを定めたもので、今でいうならば連合海区漁業調整委員会規則に相当する(図2)。

図2 江戸内湾漁業組合四十四浦
(平成28年度水産白書より転載)
 

東京湾埋立は江戸開府前から

海洋環境・生態系という観点で東京湾の利用の歴史を振り返るとき、もっとも大きな人為インパクトは、今日まで400年以上にわたり続けられている埋め立てであろう(図3)。15世紀に太田道灌が江戸城を築いた当時は現在の皇居辺りまで海岸線が入り込んでいた(図4)。徳川家康の江戸入府をへて、東京湾(当時は江戸湊)では日比谷入江や日本橋浜町、新橋などをはじめとした埋め立てが始まり、大消費地江戸を支える全国からの産物や年貢米などが江戸湊に運ばれるようになる。

図3 東京湾の年代別埋立推移
(平成17年版首都圏白書より転載)
図4 太田道灌居城と江戸湊の様子
(桐島(1925)品川灣の投網、提供:水産研究・教育機構)
図5 武州豊嶋郡江戸庄図(1632の写)、東京誌料、東京都立図書館蔵

重化学工業と物流・商業の中心地へ

江戸末期から明治にかけては、開国と造船技術の急速な発達、船舶の大型化・動力化にともない、東京湾の各地で多くの浚渫が行われた。そこで発生する土砂をもちいて、明治後期には佃島、月島、勝どき、芝浦などの埋め立てが始まった(東京都港湾局1994)。また1912(明治45)年には京浜工業地帯の生みの親とも呼ばれる浅野総一郎が渋沢栄一らとともに「鶴見埋立組合」を設立し、横浜・川崎沿海の埋め立てのほか、防波堤築堤、運河開削、鉄道施設、架橋など、重工業発展にむけたインフラ整備事業を開始する(東亜建設工業株式会社1989)。そして1923(大正12)年の関東大震災で発生した瓦礫により、豊洲や横浜の山下公園が造成されたことは有名である。

敗戦後、朝鮮戦争特需も追い風となって、東京湾の工業地帯は早々に戦後復興を開始した。GHQによる港湾施設接収が1959年に解除となり、復興が本格化するころには、東京都への人口・産業の集中化に伴う土地需要とごみ処分場の需要が一層たかまり、川崎や横浜でも埋め立てが加速した(第一次埋立ブームとも呼ばれる)。例えば1961年に策定された「東京港改訂港湾計画」では、2400haの大規模埋め立て地の造成や、世界的なコンテナ輸送革命に対応するための品川埠頭や豊洲埠頭等の整備をはじめ、国内外の物資の流通基地としての将来像が描かれた。その後主に1960年代後半から1970年代にかけ、横浜市、千葉市、市原市、江東区、大田区、川崎市、袖ケ浦市、君津市などを中心に、一都2県の臨海部で多くの埋立事業が進められ、また現在も続けられている。小荒井・中埜(2013)が行った分析によると、1965年から2012年までに、千葉県で109.78km2,神奈川県で49.44km2、東京都で37.69km2、合計196.91km2(東京ドーム約4200個分)の沿岸海域が埋め立てられ、重化学工業地帯、住宅団地、物流施設、交通施設(空港など)、商業務用地、レクリエーション施設などに活用されている。

現在の東京湾は、漁業に加え、潮干狩り・釣り・屋形船・プレジャーボートやヨットなどによるレクリエーションが盛んであり、また生き物観察の場・環境教育の場としても利用されている。東京ディズニーランドや八景島シーパラダイス、葛西臨海公園など、埋立地に作られた娯楽・観光施設も数多く存在し、国内外から多くの観光客が来訪する。その一方で、日本最大の工業地帯を擁していることから、特定重要港湾や重要港湾の数は日本で最も多く、また港湾取り扱い貨物量も日本最大と、極めて盛んな海運が行われている海域でもある。つまり、利用形態も、利用負荷も、そして利害関係者も非常に高度で多様性に富んだ沿岸域となっている(Nlachopoulou and Makino 2017)。