水産振興ONLINE
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2020年7月

漁業の取締りの歴史—漁業の取締りの変化を中心に—

末永芳美(元東京海洋大学大学院 教授)

第7章 新漁業取締り体制の時代へ

(1) 東アジア諸国が沿岸国主義へ

そのような折、水産庁は1997年10月機構改革をし、資源管理を強める体制(海洋漁業部を資源管理部に再編等)とすることとした。水産庁の漁業取締勢力を一本化し統括するため、資源管理部管理課に指導監督室が発足することとなった。初代室長に筆者が任命されることとなった。

新体制の発足に際し筆者自身が任命されることは予期せぬものであった。しかし、既に旧日韓漁業協定(1965年)、旧日中漁業協定(1975年)は世界の潮流からは遅れたものとなっていた。すでに韓国は1996(平成8)年1月29日に国連海洋法条約を批准し、1996年6月7日に中国も同条約を批准し、そして日本も1996年6月30日に批准を済ませていた。そのため、沿岸国主義による排他的経済水域(EEZ)内の漁業取締り体制を受け入れる器は日中韓の3ヶ国の間では整ったのである。旗国主義による資源管理体制に限界を感じ、自らの公務に矛盾すら感じていた我が国の漁業取締(監視)船と漁業監督官、漁業調整事務所職員等は、新たな「時代」が始まるという認識を強めてきていた。

同じように漁業取締を担う機関として、運輸省の外局である海上保安庁がある。かつて農林省の入っている霞が関合同庁舎1号館本館には水産庁、南別館には海上保安庁が隣接して同居している時代があったが、その後海上保安庁は運輸省(現国土交通省)のある合同庁舎に移転した。

両庁はもともとその目的、業務内容が別々ではあったが、外国人や外国船舶、そして外国漁船の犯則に対しては一部共通の業務基盤を有していた。水産庁は、漁業に関する政策官庁であり、外務省とともに外国との漁業協定つくり等、水産資源の保存管理や漁業の振興を主目的にしているが、海上保安庁は海上における生命財産の保護、法令違反の予防捜査等を担う機関でありその目的は異なっている。

農林水産省設置法の中で水産庁の任務は以下のようになっている。そしてその所掌事務で漁業取締に関する事務は以下の3つである。

  • 第30条 水産庁は、水産資源の適切な保存及び管理、水産物の安定供給の確保、水産業の発展並びに漁業者の福祉の増進を図ることを任務とする。
  • 第31条 (所掌事務:関連事項のみ抜粋)
    • 68 水産資源の保存及び管理に関すること。
    • 69 漁業の指導及び監督に関すること。
    • 70 外国人が行う漁業及び水産動植物の採捕の規制に関すること。

他方、海上保安庁の任務は次の通りであり、漁業法令に関しては海上保安庁法第15条の規定により、農林水産省の法令の施行に関する事務を所管する行政官庁の当該官吏とみなされ、当該法令の励行に関する事務に関し行政官庁の制定する規則の適用を受けるもの、との法的な枠組み・建付けとなっている。

海上保安庁法

  • 第1条 海上において、人命及び財産を保護し、並びに法律の違反を予防し、捜査し、及び鎮圧するため…。
  • 第15条 海上保安官がこの法律の定めるところにより法令の励行に関する事務を行う場合には、その権限については、当該海上保安官は、各々の法令の施行に関する事務を所管する行政官庁の当該官吏とみなされ、当該法令の励行に関する事務に関し行政官庁の制定する規則の適用を受けるものとする。

ところで、水産庁は日本周辺の水産資源の保存管理の目的で1967(昭和42)年に、外国人漁業規制法を制定している。旧日韓漁業協定が結ばれた2年後である。同法では、領海内での漁業操業侵犯や公海からの日本の港への水産物の直接搬入を規制することとしたが、特に西日本では韓国漁船の領海侵犯が増大していった。領海の保全は海上保安庁の主たる任務であり領海侵犯について海上保安庁が、対して水産庁は漁業協定に係わる条約に定められた任務を担うことで業務を分担した。勿論、重複することはあるし、協力連携することは多々あった。水産庁漁業取締(監視)船は洋上に長期間遊弋しての監視業務を続けられる船型と任務形態に特徴があり秀でている。それは、かつてから遠い北洋や東シナ海の先にまで取締り業務を果たし、漁船の遠洋長期操業を監視してきた特性によるものでもある。遠洋の大西洋の地中海、アルゼンチン沖や太平洋のベーリング海、豪州沖等にも漁業取締船を派遣してきた経験も引き継がれている。そのような取締業務のため洋上に長期滞在することから、韓国、中国といった外国漁船の領海侵犯を発見する機会は多く、それに対し海上保安庁は巡視艇等の高速機動性の高い船艇を有し捕捉能力に優れており、いざ事態発生となれば急派体制が整っていることから海上保安庁との間で緊密な連絡を行い外国漁船拿捕につなげてきた。

実際水産庁と海上保安庁には、その取締りの人員と装備は発足当時こそ両庁とも船舶がともに不足していたが、片や漁業に関する専門取締機関へ進み、片や救難のほか、海事、環境、航行安全等へと業務の拡大で船舶数などで差は広がった。

水産庁は、2千数百人からなる組織であったが、折から強まった行政改革の政治の声は組織の分解をもたらした。同庁は、漁業取締り部門も持ちながら水産資源研究者等調査研究部門も抱えていたが、水産研究所等の施設等機関は、国が真に担う業務か必ずしも国が司る必要がない業務かとの業務仕分けが行われ、2001(平成13)年全国に9か所あった水産庁の水産研究所は独立行政法人に切り分けられるという措置がなされた。水産庁の人員の約半分に及ぶ約千人の研究者や船舶職員等が独立行政法人へと移管されることとなった。水産庁の船舶職員は水産の科目を修了した者も多い中、戦前の農林省の船舶のように調査取締船として水産資源調査もこなし、また取締り業務をこなしてきたが、取締り業務専門と調査業務専門の集団に切り分けられてしまった。

これの弊害は、水産庁の任務として水産資源保存管理が主任務であるからには資源を知り、そのための管理としての取締りもせねば目的が貫徹されないのが、分断されてしまった点にある。独立行政法人となった水産総合研究センター(現在の国立研究開発法人水産研究・教育機構)は8隻の調査船を保有していたが、分断前には水産庁と同じ庁旗とファンネルマーク(煙突旗)を掲示しており、そのため漁業者や外国漁船に対する調査取締のプレゼンスも高かったが、それが半減したことである。あろうことか、水産総合研究センターは庁旗もファンネルマークも青い海と魚のシンボルに変更したため、漁業者から「変な船が漁業調査を行っている。密漁では?!」と水産庁の取締り部署に通報がなされることがあった。せっかく漁業者も馴染んだファンネルマークが機構改革でもったいない結果となった。ちなみに水産庁の庁旗は赤と青と白で、「水」をシンボル化した連合王国(イギリス)風のデザインである。ほんの少しのモディファイはあったが100年以上の歴史を有する。

翻って水産庁の漁業取締勢力は漁業取締船(水産庁所属船舶である官船8隻に加え、民間会社所有船の借り上げである用船37隻の総勢45隻(2020年6月時点)と取締航空機(民間会社からの借り上げである4機)の体制で漁業取締りを行っている。

なお、戦前の漁業法において、水産部局の取締官の名称は、「漁業監督吏員」として、国の機関も地方公共団体も統一して漁業監督吏員に一本化されていたが、1949(昭和24年)後漁業法が改正された際、国家公務員は「漁業監督官」、都道府県公務員は「漁業監督吏員」と別々の呼称となった。

(2) 新日韓漁業協定発効前後の漁業取締り

1977(昭和52)年のソ連による200海里の宣言に日本の輿論は盛り上がり、ソ連に対しわが国も200海里を実施せよとの声は大きくなり政府はソ連に対し200海里の漁業暫定措置法を急遽立法し、日本周辺の主に太平洋で操業していたソ連漁船に対し200海里を適用し、相互主義に基づく立場を強固にするためソ日漁業協定を迫った。当時、サバに加えマイワシ資源も豊富で、ソ連漁船は加工母船を引き連れて北海道から千葉沖まで操業を展開していた。一部ソ連大型トロール漁船も沖合で操業していた。そして、ソ連との間で相互に入り会って操業するための漁業協定が成立した。しかしこの国内法は変則的で、対ソ漁業交渉を対等にするための目的であったために二つの点において主旨の貫徹しない法律であった。まず、日本の200海里の漁業暫定措置水域については日本海側の東経135度以西には主権を主張せず、更に施行した200海里暫定措置水域であるものの、中国、韓国に対しては適用除外とするものであった。つまりソ連とその他韓国・中国を除く外国に対するものであった。

1977(昭和52)年から新日韓漁業協定が発効する1999(平成11)年1月22日までの間、韓国は世界の潮流が200海里体制、排他的経済水域設定へと突き進んでいる中にあって、極論を許されるなら「安穏」と旧来の旗国主義的な漁業操業を続行した。更には漁業拡大路線を突き進んでいっていた。韓国は「漁業強国」をスローガンにしていたし、韓国漁船の日本周辺水域での操業は、当にソ連、米国から200海里主権のもとに強力な規制がなされている中、北洋での両大国の規制により漁業権益を締め付けられた。そんな中で、北洋の往復路に当たる北海道、特に太平洋水域でのトロール操業を展開させていった。もとより、日本周辺には沿岸から沖合に至るまで稠密な漁業が行われ、漁場の利用使い分けや禁止区域の設定などでルールを決めて総合的利用を図っている漁場で、日本漁船であれば124トン以下の底曳き漁船しか操業できない中に、500〜1,000トン級の韓国の大手底曳き漁船が操業する為、真っ先に日本の沿岸漁業の設置漁具の喪失など韓国超大型トロール船は漁具被害を多発させた。「韓国漁船排除」、「韓国漁船等への200海里適用・実施」が全国漁業協同組合連合会の運動の中心課題として持ち上がってきた。これらの動きは、国会や政府への請願運動のうねりとなって広がっていった。

韓国漁船は、この頃日本に比べて弱体な漁業勢力ではなく、どんどん拡大の一途をたどっていた。九州北西岸は言うまでもなく、韓国漁船の勢力は拡大を続け、日本海にまで拡がっていき、島根沖から能登半島沖、これを越えて新潟沖、山形沖にまで増幅し、1990年後半には到頭、北海道の小樽沖にある武蔵堆という優良漁場にまで展開してくるようになった。

あろうことか、ここまで進出してくる韓国の大型トロール漁船(200t級)は韓国国内法では操業区域を大幅に逸脱しているとされた。本来の操業区域は九州沖合までが制限区域とされていた。つまり、韓国政府はこれら大型トロール漁船の法令励行も遵守させられず、手をこまねいていた。なお、新日韓漁業協定が発効する前、釜山の海洋水産部の支分署を訪れて驚いたことは、当時対馬の沿岸に高馬力エンジンを搭載したあわびを狙った韓国高速密漁船が跋扈し対馬の海上保安部が鋭意対峙していたが、その支分署の事務所の前にこれら漁船が多数舫っていたことだ。

さてあろうことか、これら韓国大型トロール船は、主に釜山港を拠点港にしていたが、日本側漁業取締船と漁業監督官が監視する中で、夕刻出港するときはきちんと船名や許可番号を表示して出港するものの、沖合に出て夜陰に乗じると船名表示個所等を板で覆い隠していた。船名隠蔽材を懸けて操業するという実態に、韓国沿岸漁船も怒り心頭に達していたという。というのは、韓国沿岸イカ釣り船が集魚灯を照らし集魚しているところに、この大型トロール漁船が突入しイカを一網打尽に横取りするという状況も発生していた。

大型トロール船は各種調査をしてみると収益性が良かったのか、存外なことに新装エンジンを装着し、北洋等からの締め出しを食らった日本の底曳き漁船が代船建造もままならず赤錆が浮いた状態の船で操業していたのに、韓国側の該船は船齢も新しいものだったことが分かった。

また、韓国沿岸では多数の無許可小型底曳き漁船が跋扈し無秩序状態で、韓国としてはその撲滅がままならず手を打てない状況であった。

このような戦闘能力の高い韓国漁船を前にし、日本側の憤懣は募るばかりで、200海里の適用への請願要請は強まるばかりであった。

さらに、太平洋側にもサンマ漁船を展開しだして、日本周辺は韓国をはじめとした外国漁船に囲まれる状況が出てきた。

遅れて、中国の漁船は改革開放後漁業の拡大、躍進は留まるところを知らず、東シナ海から九州周辺までその船影を見ない日が無い程勢力を拡大していった。

そんな中で、国連海洋法条約は既に署名が行われ、1990年代には、世界の潮流から遅れていた東アジアにも排他的経済水域設定の波は押し寄せてきた。本来であれば、国連海洋法条約の大枠を東アジア各国が受け入れEEZ体制に基づく新漁業条約締結への準備とそのための地ならしをすべきであった。

しかしながら、20有余年韓国と中国に宥和的な漁業政策を日本が取り続けたことが、東アジアの隣国にとって「ぬるま湯」的であったためか、EEZ体制への準備は進んでいなかったようだ。この点は、研究を通じ今後検証していかなければならないであろう。

世界の潮流である200海里体制とそれに伴う体制の受容を、隣国の現場の漁民や漁業企業が理解したのであろうか。

日本は、1977年以降外国漁船に対する200海里規制の洗礼を米国、ソ連、ひいては世界中に漁業を展開してきた数えきれない国々から対応を迫られ、その多くは、法外な入漁料や厳格すぎる実態にそぐわない規制等漁業経営が成り立たず撤退、廃業をせざるを得なかった。

しかし、韓国、中国は日本列島弧の内側でようやく多くの漁業を展開し、その飛躍の中で日本の太平洋側の公海にまで漁業を拡張して来た。しかし、自由な操業は時代遅れとなり、公海で待っているのは国際的な漁業管理機関の管理体制である。勿論国際間の規制や保存措置の調和であるから、一国だけが有利な結果はもたらしえない。

漁業が旗国主義から沿岸国主義(沿岸国が200海里主権国と成ること)へのレジームシフトが世界の主流となる中、東アジアは20余年遅れで日本をはじめ周辺諸国と漁業協定を締結し20年ほどの旧来型の旗国主義の漁業形態の運用を続け、カルデサック(袋小路)に嵌まっていた。今後、既にどう近隣国と調和を図るべきかを思案する段階に突入の時代になっていた。

自国の利益、関係国の利益、漁業資源の限界、資源保護管理との兼ね合いを図らねば、友好関係は築けない時代だ。

日本は、新日韓漁業協定が締結されるに際し、沿岸国主義に基づく資源保護体制を周到に準備してきた。

長い間、東アジアは旗国主義に基づく漁業協定を締結し漁業秩序の形成を図ってきたが、韓国中国の急速な漁業発達はそれを許す状態ではなくなった。

両国とも日本が1977(昭和52)年以来これまでの約40年間、減船や資源管理体制の形成に努めてきたが、韓国、中国とも同じような路を辿る時期が到来してきている。

200海里沿岸国体制に漁業取締りを転換するにあたり、わが国の漁業取締船や漁業監督官は、長いことジレンマに嵌まっていたことを転換させる転機に向き合っていた。それは、旗国主義であったことから、あくまで取締は漁船の所属する国に一元的に取締権があった。そのこと自体は、旗国がしっかりと資源管理に務めればいいが、旗国の管理体制のゆるみが、そのツケを隣国に押し付けることになる。

(3) 実効ある外国漁船拿捕体制の確立へ

長らく、旗国主義によるジレンマに苦しめられてきた水産庁の漁業取締船と漁業監督官は、日本から旧日韓漁業協定の破棄を通告し、新日韓漁業協定の発効に向けて1年先の365日のカウントダウンが進む中、新取締体制への準備と漁業監督官の意識の改革を進めてきた。外国漁船を拿捕する体制は1977(昭和52)年の日ソ間の漁業協定のもとで外国漁船拿捕の体制は出来ていたが、その後サバとイワシの資源減少やロシア国内の経済や体制の混乱から日本の200海里水域へのソ連漁船の入漁隻数は激減していった。また、ソ連(ロシア)漁船への日本人オブザーバー乗船も規則の遵守を高めてきた。

西日本では韓国の漁業の急速な台頭とともに、日本の領海侵犯の漁業違反については、海上保安庁が担って実績を積み重ねてきた。新日韓(中)漁業協定発足後は、水産庁としては排他的経済水域となる広大な水域に展開する韓(中)国漁船に対し国連海洋法条約に則った拿捕体制に急速に転換せざるを得なくなった。行政官庁としての水産庁は漁業協定に基づく外国漁船への漁獲割当や許可証の発給の権限を有している、そして、指示に従わない外国漁船には漁業許可取消し(自動車運転免許であれば免許取消しに相当)権限がある。

行政警察権に対し司法警察権の実施、しかも外国人の検挙、洋上での拿捕等には取り組むに困難で解決せねばならない点が多数想像された。それを一年間の準備期間でクリアしていかねばならなかった。任意捜査から強制捜査への転換、犯行者の逮捕、送検を刑事訴訟法の下での適正な手続き等の訓練・習熟を達成せざるを得なかった。

水産庁の準備態勢についてマスコミ、新聞から懸念し、心配する取材もあった。しかし、漁業取締船、漁業監督官の意識と意欲は高かった。これまで手出しもできず切歯扼腕の思いから旗国主義と別れを告げて、資源管理保存に徹し管理体制を徹底できることへの期待と高揚感もあった。

筆者が取った新漁業取締体制への対応としては、以下のものだった。

漁業取締船や漁業監督官との頻繁な意見交換。意見交換の中から出てきた要望や不足する機材や装置への着実で真摯な対応。予算措置せねばならないものには、財務当局との予算折衝。語学研修へは外務省はじめJICAと語学研修制度と受け入れ打診、語学教師の派遣。

護身資機材導入や逮捕術の訓練と対応。海洋法条約に基づく担保金の受入れ準備、等等であったが、それらはすべて漁業取締船や漁業監督官自らが考え抜いて、出してきたものであった。これらに対しては、財務当局は限られた予算という事で通常厳しい査定が通常であるが、熱心で真摯な監督官等の要望であったため誠意ある対応を得ることができた。また、国有財産である漁業取締船の衝突や相手からの追突等による損傷には船長以下最も懸念する点でもあった。それについては、指揮命令系統を明確にして、船長だけの責任とならないような仕組みとした。それは船長以下の機運(やる気)を目覚ましく変えた。

それと、この文章の中でも混乱するような監(看)視船、漁業調査取締船、漁業取締船などの呼称を使ってきたが、それは従来は漁業監視船、又は監視船という呼称が使われてきたことの反映でもあった。筆者は沿岸国主義となる新日韓漁業協定発効を期に、呼称されてきた「監視船」の呼び名を一掃して、維新的な発想で関係者の意識を改めるため、統一して「漁業取締船」と称する事に変更した。ちょうどその頃、水産庁が「漁業取締船」へと改めるのと呼応するかのように海上保安庁でも、同庁の英語訳が Maritime Safety Agency だが対外国向けの印象が弱いので Japan Coast Guard とする事とされたことを互いに知り、時宜を得たものだと納得した記憶がある。それと、これは漁業取締船の士気と使命感の高揚を目指すため、これまで漁業取締船の中でも士官クラス等へ人数を限っていた漁業監督官への任命を、取締船は全員が一体で当たるべきだとの思いから、漁業法施行令の規定に反しない限り全員を漁業監督官に任命することとした。これは、戦後の漁業法は専門性の高い漁業監督官、それに一層制限のかかる特別司警察員への絞り込みの方向性を求めたが、「漁業取締船」へと移行する以上タイムリーと思ったためであった。これは昨今話題となった用語の One Team となって欲しいとの思いからであった。それにしても、事に当たって目標を達成する為には、それぞれの思いを如何にして高め、意欲を削がないことであるかと思った。

日韓漁業協定発効後、九州漁業調整事務所が初拿捕したのは1999年7月7日第77〇〇号であった。ゾロ目の年月日と船名が続く忘れがたいものとなった。しかも、同漁船を初検挙した監督官は用船に乗船の古参の監督官であった。現場には二隻の違反韓国漁船がいたが、もう一隻は海上保安庁に受け持ってもらい二隻の拿捕につながった。

その後、九州漁業調整事務所に事務所始まって以来農林水産大臣が大臣として初訪問された時には同漁業監督官への労いの言葉を頂いた。同監督官に刺激を受け、官船も含め所属の漁業取締船も気を引き締めた。その後の活躍は、言うまでもない。

九州漁業調整事務所は取締グループとして2006(平成18)年に「国民全体の奉仕者としての強い自覚の下に職務に精励し、国民の公務に対する信頼を高めることに寄与した」として人事院総裁賞の栄誉を受けることとなり、皇居にて天皇皇后両陛下の御接見を賜っている。その九州漁業調整事務所の官船白鴎丸は、また2015(平成27)年に人事院総裁賞の栄誉を再び受けた。また、2012(平成24)年に瀬戸内海漁業調整事務所も栄誉を受けている。(表4)

表4 漁業取締に関する人事院総裁賞
表4 漁業取締に関する人事院総裁賞

なお、行政とはすっかり疎遠となって大学にて研究に勤しんでいた筆者に或る日、当時の九州漁業調整事務所のK所長から、「自分が代表して人事院総裁賞の栄誉に浴することとなった、前任者(筆者)の取締体制発足時の苦労のお蔭でもある」として態々電話があった。行政はバトンを渡されるマラソンランナーの様なもので、往々にして過ぎ去ったランナーは忘れられていくものなのに、と感慨深く拝聴した。

政府の叙勲のうちに、危険業務従事者叙勲というものがある。水産庁の取締関係者は2018(平成30)年から、受章している。2019年と2020年の叙勲者が報道されていたので、ご労苦に敬意を表して一覧表を掲げておく。(表5)

表5 水産庁関係者への危険業務従事者叙勲
(2003年創設 2018年から水産庁職員対象に)
表5 水産庁関係者への危険業務従事者叙勲(2003年創設 2018年から水産庁職員対象に)
(出典:HP内閣府 危険業務従事者叙勲受章者名簿 2020年6月時点)

漁業取締史から言えば、日韓漁業協定の発効の1999年(平成11)年は日本の漁業取締史の大転換点だった。

これから今後どう発展的に進んで行くか見守っていきたい。