水産振興ONLINE
623
2020年7月

漁業の取締りの歴史—漁業の取締りの変化を中心に—

末永芳美(元東京海洋大学大学院 教授)

第6章 戦後の水産庁発足と新しい漁業監督公務員制度の改正

(1) 戦後の漁業法改正と新たな漁業監督公務員制度の改正

戦後農林省水産局は昭和23年7月1日水産庁として設置された。

それとともに明治漁業法が、戦後の新たな漁業法として改正された。

この1949(昭和24)年の漁業法の改正について水産庁が解説本を出している。それによると、新しい漁業監督公務員の制度を要旨次のように記している。

「漁場利用の秩序は作られても、官僚が天下りに押し付けた秩序が、漁民が納得してこれに従うはずがない、また旧制度の如き実態と乖離した方式によって作られた秩序が維持されようがなく、そこで一旦白紙に返して新しい秩序を作り出すわけであるが、守られる漁業秩序の根本は漁民が自らの手によって作った納得した秩序であることであるとし、せっかく納得づくで作ったものを自己の私利私欲のために蹂躙してかえりみないものがあるのにそれをそのまま放置しておくのでは、きまった秩序に従って漁業を行う者は馬鹿を見ることになり、秩序は全面的に壊れる。そこで漁業取締りが必要となり、海上の違反で通常の司法警察職員の取締力をもってしては不十分であるので、特に漁業監督公務員制度を置いているのである」、としている。さらに、「取締の根底は、その秩序が守りうるもの、漁民の自由な意思の合致によって納得ずくでのものであることである、この前提を欠いていたため、取締のしようがなかった。法の権威は失われ、秩序は無視されてもいかんともしえなかったのである。今後は従来の如き、特に戦時中から戦後にかけての紊乱は断固一掃して、制度改革を期に漁業取締の制度も確立しようとするのである」
(水産廰経済課 昭和25年 P593〜599 下線は筆者が付した)。

そして、旧制度と主要相違点を示している。

要約すれば、旧制度では漁業監督吏員は臨検等の行政監督の権限を有するとともに、捜索、差押等の司法警察権限も有しており、その司法権限を行使する場合には一般の刑事訴訟法の手続きによらず間接國税犯則者処分法—現在(筆者注:昭和25年当時)は国税犯則取締法—の手続きによっていたが、

  • 名称が従来は漁業監督吏員一本であったものが、官吏(国家公務員)は漁業監督官、公吏(県等の地方公務員)は漁業監督吏員の二通りになったこと
  • 漁業監督公務員の中には、漁業監督の権限のみ有するものと、その外に司法権限を有する者の2種類となったこと
  • 行政監督について、従来のあいまいな表現を改めて明確にしたこと
  • 司法権限を有する者の任命は、従来は農林大臣または都道府県知事限りで任命していたが、今度は主たる勤務地を管轄する裁判所と対應する検察廰の検事正と協議して指名することとなった。

その背景として、「司法権限は、原則として行政官は行使することができず、特にその犯罪の捜索に専門的知識が必要で普通の司法警察員のみでは不十分である場合に限って行政官にも司法権限持たせるのであって、人権尊重の趣旨、通常の司法警察員のかずもおさえられていることにも鑑み、その人数及び質には慎重であるを要する」とし、「他の特別司法員の指名もすべてそうであるが、検事正との協議を必要とした。」と記しており、司法警察員の数と質の観点から絞って協議をするんだとして、人数については県の場合を例示し、「一應の内訳として一縣当り十名程度」とし、資格については職位の上の公務員を想定して「資格は二級または三級の事務吏員または技術吏員―監督官の場合は事務官または技官」(筆者注:戦後すぐの頃の二級または三級というのは戦前の高等官たる奏任官か判任官の高位にある者)として、携わっている業務について「取締船関係、漁業権の免許、漁業の許可の事務担当者、孵化事業等縣営漁業に従事する者、漁船登録の事務担当者等漁業法令の勵行と密接に関連する職務に直接従事して取締をなしうる者の中から指名する。」とし、「従来の如く吏員であればいかなる職務に従事していようとすべて監督吏員とするというような濫用は辞めなければならない。」とし、資格と数の厳格化を促している。

次いで

  • 司法権限を行う場合の手続きは、刑事訴訟法の手続きによること。としており、「特別の手続きによっていたのは税關官吏(筆者注:ママ、間接国税官吏の誤りでは)と漁業監督吏員のみであったが、新憲法に基づいて…人権尊重を旨として…今後は一般の手続きによる」

とし、他の特別司法警察職員と同様に刑事訴訟法によって行う事に改正したことを示している。

戦前の明治漁業法と戦後の漁業法の漁業監督公務員の規定の違いを以下に示しておこう。

(戦前)
漁業法 明治43年4月21日法律第58號

  • 第41條 海軍艦艇乗組将校、警察官吏、港務管吏、税關官吏又ハ漁業監督吏員ハ漁業ヲ監督シ必要アリト認ムルトキハ船舶、店舗其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿物件ヲ検査スルコトヲ得
    前項ノ臨検ニ際シ漁業ニ關スル犯罪アリト認ムルトキハ捜索ヲ為シ又ハ犯罪ノ事実ヲ證明スヘキ物件ノ差押ヲ為スコトヲ得
    臨検、捜索及差押ニ關シテハ間接國税犯則者處分法ヲ準用ス但シ同法第四條ノ規定ハ漁業監督吏員以外ノ者ニ之ヲ準用セス

(戦後)

  • (漁業監督公務員)〔戦後の漁業法〕
    第74条 主務大臣又は都道府縣知事は、所部の職員の中から漁業監督官または漁業監督吏員を命じ、漁業に関する法令の励行に関する事務をつかさどらせる。
  • 2 漁業監督官及び漁業監督吏員の資格について必要な事項は、命令で定める。
  • 3 漁業監督官または漁業監督吏員は、必要あると認めるときは、漁場、船舶、事業場、事務所、倉庫等に臨んでその状況若しくは帳簿書類その他の物件を檢査し、又は関係者に対し質問をすることができる。
  • 4 漁業監督官または漁業監督吏員がその職務を行う場合には、その身分を証明する証票を携帯し、要求があるときはこれを呈示しなければならない。
  • 5 漁業監督官及び漁業監督吏員であってその官公署の長がその主たる勤務地を管轄する地方裁判所に対應する検察廰の検事正と協議をして指名したものは、漁業に関する罪に関し、刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)の規定による司法警察員として職務を行う。

(2) 漁業監督官と漁業監督吏員となるための資格の厳格化

では、漁業監督官又は漁業監督吏員の資格は戦前と戦後でどう変わったかであるが、資格について戦前よりより厳密になって、かつ学歴と専門性について着目しており、政令を定めて1年以上の漁業の法令に関する事務の経験者か、2年以上の漁業行政事務の経験者、ないしは大学か水産大学校において法律又は水産に関する科目を修めて卒業した者、に限定した。

(戦前)
大正10年2月勅令第17號ニ依ル改正

  • 第1條 漁業監督吏員ハ左ニ掲グル者ヲ以テ之二充ツルコトヲ得
    • 一 農商務省及道廰府縣郡竝島廰ニ於イテ漁業ニ關スル事務ヲ掌理スル官吏
    • 二 漁業ニ關スル事務ヲ掌理スル地方産業職員

(戦後)
漁業法施行令昭和25年政令第30号

  • (漁業監督官の資格)
    第30条 次の各号のいずれかに該当する者でなければ、漁業監督官となることができない。
    • 一 通算して一年以上漁業に関する法令の励行に関する事務に従事した経験がある者
    • 二 通算して二年以上漁業に関する行政事務に従事した経験がある者
    • 三  学校教育法に基づく大学、水産大学校において(〜略〜)法律又は水産に関する科目を修めて卒業した者

極論を言えば、上記30条一、二で従事業務の経験年数で漁業監督官になる場合を除けば、経済学部などの学部卒業者は資格対象者者として除外されるという事である。

このような規定は麻薬取締官は薬学を修了した専門家集団であるため、麻薬取締及び法向精神薬取締法施行令第10条で、法律又は薬事に関する科目を修めて卒業し、学士の学位を有する者でなければ麻薬取締官になることができないとしており、資格対象者を限定する同様の枠組みとなっている。

漁業監督官も業務の専門性が高いことの裏返しである。つまり、水産に関する科目を修めた専門性が漁業監督官業務に活かせる活躍ぶりを示せることこそが、漁業監督官に求められる途という事である。

(3) 戦後空白状態になった漁業取締り体制

かくして戦後の漁業監督公務員の制度は新たになったものの、戦後の我が国を取り巻く複雑な国際関係は漁業取締船や漁業監督官にあらたな苦難をもたらすこととなる。

まず、漁業法改正で海軍艦艇乗組将校と港務官吏、税關官吏は戦後の漁業監督を行う者から除外されている。戦後は海軍が解体されたことによって、替わって、海軍に匹敵する海上治安を司る強大な機関は無くなり、海上での治安や漁業資源保護に空白が生じることになった。

終戦の3年後の1948年5月1日に海上保安庁が新設され、海上保安官が新たに漁業取締を担う側として加わった。海上保安庁の発足当時は、小型木造船僅か28隻の勢力だったとされる。

水産庁は同年7月1日に農林省外局として昇格。

農林省水産局の漁業取締船は、戦時中の海軍等による徴用や戦時下での戦闘機や潜水艦での攻撃によりほぼ壊滅状態になった。

終戦の1945(昭和20)年までに沈没や擱座等で失った船舶は、昭和19年に祥鵬丸(176トン、西カロリンで沈没)、昭和20年に白鳳丸(332トン)、快鳳丸(1091トン)、飛隼丸(319トン)、俊鷹丸(76トン)、白鴻丸(76トン)となっており、生き残ったのはわずかに俊鶻丸(532トン)と初鷹丸(286トン)だけであった。しかも、北洋をホームグラウンドして漁業取締りに活躍した俊鶻丸は、終戦直前に水産講習所(のちの東京水産大学)に移管されたのち戦後下関の水産大学校にさらに移管替えとなったため、事実上漁業取締体制は崩壊状態となった。

時は、戦後の敗戦、外地からの引揚者等により、極端な食料難で国民は栄養失調状況に在った。そんな中、海に出れば水産物の食料供給ができるものの、GHQはマッカーサーラインを敷きその狭いライン内に我が国漁船の漁業操業活動を厳しく制限した。

食料難で飢えた国民にとって水産物は渇望されるとともに、復員兵などの漁村や漁業界への参入圧力は増し、漁業就業者数は増加の一途となり、それにつれて漁業秩序は乱れ、漁業資源の乱獲状態も見られ、無許可船の横行等も見られた。それに加えて、北洋と並び戦前の2大主要漁場であった朝鮮半島、東シナ海へはマッカーサーラインの制限が加えられたため、狭隘漁場がさらに狭隘状態になった。

そうした中、朝鮮半島周辺海域に暗雲が立ち込めた。

海上保安庁が1948年5月1日発足し、農林省水産局が同年7月1日に水産庁へと昇格した時点に先立つ1年前の1947年2月4日に、韓国による日本漁船の拿捕が起こっている。そして、海上保安庁、水産庁が発足の約1年後の1949年5月4日には、日本人漁船員1名が拿捕時に銃撃され死亡するという事件が起こっている。そして、この年には合計で3名の日本人が死亡している。

そのため、GHQ(連合軍総司令部)は上述の銃撃死亡事件が起きて時を置かずして、指令を出して東シナ海に監視船派遣許可を出している。翌年GHQは、韓国政府に日本漁船の拿捕停止と被拿捕漁船の返還を要求。それにもかかわらず、韓国は国務会議(国会に相当か)で「漁業保護水域」を可決し、翌1952年1月18日に李承晩ライン宣言を出した。これに対し、日本政府は李承晩ライン宣言に抗議をするとともに、米国政府も抗議をしている。この米国政府が抗議をしたその日に韓国により日本漁船が拿捕され1名が銃撃により死亡している。GHQは1952年4月25日にマッカーサーラインを廃止している。この後、中華民国(現在の台湾)も李承晩ライン宣言に抗議をしている。翌1953年には英国も李承晩ライン宣言に抗議している。それにも拘わらず、韓国の拿捕行為は止むことなく、また日本漁船の拿捕時に日本人漁船員1名が銃撃され死亡するという事件が引き起こされている。1953年の9月には日本漁船の大量拿捕が始まった。

この年次ごとの事件については、この前後を含め「竹島問題の起原—戦後日韓漁業紛争史—」の戦後日韓海洋紛争史関連年表から引用させていただいた(藤井賢二 2018 p421〜432)。

(4) 水産庁漁業監視船や海上保安庁巡視船の韓国艦艇との壮絶な戦い

有ろうことか、1953年9月27日には水産庁漁業監視船第2京丸(筆者注:当時「監視船」との呼称が一般的だった。)と乗船漁業監督官が韓国艦艇に拿捕され、漁業監督官も韓国に連行されていった。

時を置かずして3ヶ月後の1954年2月20日には今度は海上保安庁巡視船「さど」が韓国艦艇に連行されるという事件まで起きている。

後年、筆者が水産庁の九州漁業調整事務所に勤務した折、この漁業監視船第2京丸の被拿捕と漁業監督官の抑留の事件は職員の記憶に深く刻まれていた。「同漁業監督官は気丈な方であったが、約1年後にやっと帰還となったようであるが、同監督官は黒々とした髪をしていたが、日本に戻ってきた時には髪の毛が真っ白になり、同一人物とは思えないほどやつれ痩せており直視するに忍びない程であった、韓国での収監施設での過酷な対応と厳しい食事内容が想像された」と語り継がれていた。残念ながら、本事件の記録は存在するか否か不明である。筆者は確認することなく異動した。なお、第2京丸の船体は、最後まで返還されなかったと聞いている。(筆者注:(森須和雄 2017)では第2京丸は日本水産の傭船と資料にはなっているが、同船名からして極洋の所有船であろう。)

翻って、巡視船「さど」の韓国艦艇による連行は当時日本にとっても衝撃だったようで、当時の国会でも取り上げられている。国会の議事録と森須和男「李ラインと日本漁船拿捕」東アジア研究28号(2017年3月)は個別の被拿捕日本船舶383隻が一覧表として丹念に取りまとめられている。国会議事録と(森須和雄 2017)を引用しつつ当時の拿捕状況を追ってみたい。

第19回参議院運輸委員会昭和29年2月22日第10号(筆者で議事録を要約)
1952年日本国政府は韓国周辺と東シナ海の公海における日本漁船の拿捕防止に関する閣議決定(注:筆者は閣議決定に付き未確認)をしたため、海上保安庁は、水産庁監視船と協力連携強化しつつ、1乃至2隻を派遣、翌1953年9月(第2京丸事件発生)から全国から動員をかけ常時5隻で行動中であったが、1954年2月20日午前6時半頃、後方面に日本漁船が操業中なのを確認したので前方に出て対応していたところ韓国艦艇が突然発砲してきたため、日本漁船の避難のための時間稼ぎを慮り先方金星号に会談を求め乗船したところ、同艦艇は結論を得ないまま日本側巡視船船長等を搭乗させたまま強行連行し、済州島に向かった。これを阻止しようとした巡視船「くさなぎ」にも銃撃を加えた。巡視船船長らを軟禁、李ライン侵犯公務執行妨害のかどとしたが、21日0時釈放22日午前8時30分門司に寄港した。釈放まで約18時間であった。

なぜ、釈放になったかは資料からは明らかでない。日本政府の抗議も受けとめたとの見方もある。

当時海上保安庁では火器を備えておらず、99隻の巡視船を保有していたが59隻に火器の装備を計画中であり、同時点まで49隻が準備を終えたとしている。海上保安庁長官の答弁は続いている。

韓国側艦艇勢力を韓国警備艇は10隻程度じゃないか、金星号は機銃を二門、その他自動小銃を備えている。
海上保安庁が火器の装備を開始したのは、1954年時点で49隻に火器を積み込むための改装工事を終わり、あとは火器を積み込むだけ、一番大きいのは3インチ、40ミリ機銃、20ミリ機銃の3種類で、年度内に10隻程度に積み込む手配。

と答えている。

次いで1955年2月には長崎県生月島沖で日本漁船が、直接の李ラインとの関連とはいかないだろうが、在日米軍基地に向かっていた韓国艦艇に追突され沈没、日本漁船員21名死亡するという大惨事まで起きて、日本で大きな社会問題となり国会でもとりあげられる事態となった。その後1958年ころから日本人抑留漁船員の帰還が多くなるが、1960年4月ソウルで学生デモにより李承晩政権が崩壊し、1961年に朴正熙が権力掌握した。しかし、1963年6月には海上保安庁巡視船「のしろ」も短時間ではあるが留められその後釈放になっている。

そのような中、1964(昭和39)年3月、韓国国会は依然海洋警備強化を求め、1964年5月には海上保安庁巡視船「ちくご」が連行されるという事態も起こっている。そしてようやく1965(昭和40)年5月になって、日韓基本関係条約と日韓漁業条約が批准され、やっと韓国の李承晩ラインによる拿捕が終わることとなった。朝鮮半島周辺での漁業を巡る「平和」はようやく戻ることになった。

だが、その後に起こり得る日韓漁業問題を内蔵させたままの日韓漁業条約の妥協であった。

とにかく、海上保安庁の巡視船や水産庁の監視船の身を挺しての日本漁民保護は終止符を打ったが、その後年を追うごとに顕在化してくるのが日本周辺水域における韓国漁船と日本漁船の摩擦であった。日韓漁業条約で日本漁船の拿捕が無くなったという意味での安全操業は達成されたものの、またしてもこの日韓漁業条約は大きな矛盾を抱えることとなった。

前述したように、水産庁の監視船は戦時中の撃沈等で大半の船を失い、わずかに残ったのは初鷹丸と俊鶻丸だけとなったが、初鷹丸は石炭焚きのレシプロエンジンであったため脚(航続距離)が短く、マッカーサーライン取締りは専ら傭船によって行われた。初鷹丸は時々沿岸禁止区域の取締りに従事したようだ。初鷹丸の代船建造については戦後早くから要望され同船とともに関係者の間で強く運動されたが認められなかった。1952(昭和27)年1月に李承晩ラインが制定されたが、替わって1953(昭和28)年の予算で認められたのは、水産庁の漁業取締りの旗艦船となる北洋漁業取締りのための大型船の東光丸(1,098トン)であった。しかも大部分北九州出身の初鷹丸乗組員が移乗し北洋に向かうという不本意な事態になった、そして、李ラインをめぐる異常な事態の続いている以西漁場には、1963(昭和38)年に水産庁所有の漁業取締船の白鷗丸(222トン)が竣工するが、その間、水産庁はすべてを傭船に依存せざるを得ない事態となった。翌々年の1965(昭和40)年の日韓基本関係条約が批准される直前でのやっとの白鷗丸竣工であった。

白鷗丸(3代目)は、その後新日韓漁業協定(1999年)が締結されてから、外国漁船の我が国EEZ内の監視と拿捕で顕著な業績をあげ、その後人事院総裁賞の栄誉に浴する漁業取締船となるが、その時はそういう将来があるのを知る由も無かった。

概して、漁船の拿捕を阻止するのには、相手方艦艇と漁船間の間に割り込み、監視船ないしは巡視船が楯となる方法と、かなり接近している場合は漁船を横抱きにして拿捕をさせない場合がある。当時から国際法違反とされていた李承晩ラインをめぐっての、このような危険を賭しての日本漁船保護のための攻防戦であったが、その時代が終止符を打つこととなった。

公船も含めた拿捕日本船舶総隻数328隻、拿捕された日本人は3,929人とされた。(森須和雄2017 P29 出典により数値に差異がみられるが、上は最大数の数値。)

(5) 旧日韓漁業協定が発効してからの取締り

その後、日韓漁業間の関係、事態は急激に変わっていく。旧日韓漁業協定では、領海3海里と、12海里までの漁業専管水域、そしてその沖合に共同規制水域を設け、主として日本漁船の隻数制限や、漁獲量上限などが設けられたが、そのため日本側は入域隻数を管理するための入域標示版の管理などが、水産庁漁業調整事務所や監視船の主たる業務となった。他方韓国の漁船勢力の拡大と隻数の増加は急激であり、そのような中で日韓両国間では旗国主義が取られたため、沿岸国の日本側には韓国漁船の領海侵犯と漁業専管水域侵犯以外は主権の行使は出来なかった。韓国漁船が唯一守るべきは相手国(日本)の国内法の遵守をすることとされていた。しかしながらあくまで旗国主義であったため、韓国漁船が日本漁船に求められる禁止区域侵犯を起こした場合であっても、日本側監視船には取締り権限はなく、あくまで韓国漁船の写真等の証拠を集め相手国政府に送りつけ処分等を求めるしか方法はなかった。行政処分ないしは司法処分については韓国政府に委ねるしかなく、日本側が期待するような遵守効果が達成できないというジレンマが生じた。

日本の沖合底曳漁船が禁止区域を侵犯した場合には、日本の漁業取締(監視)船は検挙・処分をせざるを得ないのであるが、韓国の底曳き漁船が同様な禁止区域侵入の違反を犯したのを確認したとしても、日本側漁業監視船としては写真等の証拠を送り付け韓国政府側の処分を期待するだけとなった。このような対応の差に、日本の漁業者は、日本の漁業取締船に対し「どちらを向いて仕事をしてるんだ!」との憤懣の声が強まっていった。

昭和24年の改正漁業法では、「漁場利用の秩序は作られても、官僚が天下りに押し付けた秩序が、漁民が納得してこれに従うはずがない、…守られる漁業秩序の根本は漁民が自らの手によって作った納得した秩序である」(水産廰経済課 昭和25年)と解説しており、漁業者が納得してそれに従わなければ意味がないと喝破している、日本漁船には厳しく、外国漁船にはただ指をくわえておかねばならないという事態が漁業取締(監視)船に対し厳しい見方が長く続くことになった。そうであれば、日本側漁業監視船と漁業監督官の法令励行に対する熱意も、韓国漁船の日本側国内規制の逸脱が激しくなるにつれて、公務員としての公務に尽くすという意欲に水を差しかねなくなってくる。

1977(昭和52)年日本はソ連の200海里設定に対し、漁業水域暫定措置法を国会の全会一致で立法し相互主義に基づき旗国主義から沿岸国主義による入漁体制を作ったが、日韓、日中の間では、この200海里暫定措置水域の適用を両国の漁船には適用せず、しかも日本海の東経135度の線以西には暫定措置水域を設定しないこととした。そのことが益々、韓国漁船の日本周辺水域での漁業活動に拍車をかけることとなった。ことは西日本だけでなく、北洋の米国、ソ連の200海里から締め出された韓国の500〜1,000トン級の超大型トロール船が北海道太平洋側の漁場で操業するようになっていく。日本漁船はトン数制限で124トンまでの底曳船でしか北海道周辺では操業できないにもかかわらず、それに比べ1,000トン級の韓国超大型のトロール船は自由にスケトウダラなどを漁獲した。それにもまして、北海道沿岸の小型漁船の刺し網や籠漁業などの漁具を損傷させる事態が多発した。このような事態に、水産庁は韓国側に日本の底曳漁船に求められる操業禁止ラインを尊重するように求め、幾時にもわたる交渉を積み重ねていくことになった。

この北海道沖の韓国超大型トロール船に対しても旧日韓漁業協定では旗国主義のため、日本漁船の禁止ライン内に立ち入らないようにと監視と注意喚起を求めるしか手段はなかった。超大型の韓国トロール船であるため、昼夜フル操業をするため水産庁の監視船は連日終日に亘り追尾して監視を続け、日本漁船への漁具被害を起こさないよう指導注意するしかなかった。このような監視活動は漁業監督官の疲労感と無力さを増していった。そのような年月が長く続いた。

北海道周辺での韓国超大型トロール漁船の操業隻数は当初23隻いたが、第一次自主規制措置(1980年11月〜1983年10月)で17隻まで減らすこととし、第5次自主規制措置(1997年12月)の時には14隻を11隻まで減らす措置が取られた。

しかし、日本漁民の側には北海道超大型トロール漁船をはじめ韓国漁船の日本周辺水域での操業の横行に対し、「我慢の限界」の臨界線にまで達していた。旗国主義かつ韓国周辺における主に日本漁船の規制措置を講じた旧日韓漁業協定の廃棄と、新たな沿岸国主義に基づく排他的経済水域(EEZ)方式を求める日本漁業関係者の声は日に日に強まっていった。