水産振興ONLINE
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2020年7月

漁業の取締りの歴史—漁業の取締りの変化を中心に—

末永芳美(元東京海洋大学大学院 教授)

第5章 戦前の漁業取締り体制とその取締りの変遷

(1) 戦前における漁業取締りの状況

1911(明治43)年の改正漁業法で漁業監督に当たることのできる職種の官吏は、既述のとおり同法第41条「海軍艦艇乗組将校、警察官吏、港務官吏、税關官吏又ハ漁業監督吏員」と 5種類の職種の軍人・官吏がその任に当たるとされている。

では、どのようにして漁業の監督を行なっていたのであろうか。

まず、臨検であるが「漁業を監督し必要あると認むるときは船舶、店舗その他の場所に臨検し帳簿物件を検査することができる」としている。そして、「臨検に際し漁業に関する犯罪ありと認むるときは捜索をなし犯罪の事実を證明すべき物件の差押を為すことができる」とされてきた。

なお、「臨検、捜索及び差押に関しては、間接國税犯則者處分法を準用せよ」となっていた。

では、間接國税犯則者處分法とは如何なる法律かという事になる。(補足資料参照

しかし、この法律に関し、従前の水産関係書には詳細を説明したものが見当たらない。そこで、この法律を詳らかにするとともに、いくつか特徴的な点を説明しておきたい。

この法律は収税官吏として間接国税に関し犯則があるときの手続きを定めている。

戦前の間接国税として代表的なものは酒税であった。それに対して直接国税としての代表例は、所得税と法人税である。

戦後から令和の現在では裁判所の令状を得なければ捜索や差押は出来ない令状主義へと移行したが、当時はこの手続きを経ないで、捜索や差押ができることとなっていた。

同法は「第1条 間接国税に関する犯罪ありと認むるときは収税官吏は犯則事実を証明すべき物件、帳簿、書類等の差押をなすことを得」とされている。いわば収税官吏に犯罪ありと認むるか否かの判断が委ねられていた。

というのは収税業務は専門性が高く、補足するのに専門知識が必要なため、収税官吏の業務に対して特にこのような法律が定められたようだ。また、現場で臨検していて犯則を見つけた時に、犯則事実を証明すべき物件、帳簿、書類等を差押える緊急性が求められるからとされる。

漁業においても、犯則現場における緊急性が必要なため、間接國税犯則者處分法を準用することとされたもののようである。

もう一度明治期における我が国の税収の実態に戻れば、現実の問題として明治期における我が国の税収の双璧を為すのは、実は間接税たる酒税と地租税であった。明治30年代の日露戦争を契機に財政事情を満たすべく酒税が国税の税収1位となった。その後直接税たる所得税が国税収入の1位となったが、酒税が所得税や法人税(昭和15年に所得税から分離)にその座を譲ったのは(ずっと後の)昭和10年代にとされる。(出典:酒税が国を支えた時代|租税資料特別展示|税務大学校|国税庁HP)

その間接国税たる酒税関係の犯則件数は明治期には約1万件 /年前後で推移しており、戦後の混乱期にはなんと約5万件 /年もの犯則件数があったとされている。

立入検査には身分證票が要るため、漁業法では但し書きで漁業監督吏員は間接國税犯則者處分法第4条の規定「収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為すときは其の身分を證する證票を携帯すべし」を準用すべしとされている。収税官吏には身分證票の携帯に加え、制服も導入されているが漁業監督吏員には制服は定められていない。筆者として、理由は確認できていないが、国と府県の吏員がいたので一義的に定めなかったのではないかと推測するが、今後引き続き調査したい。

なお、「明治33年1月税務署の中でも間接国税の検査に従事する職員に制服の導入が発令され、同年2月1日から実施に移された」。その理由として「『官吏たる品位を』保つため。及び『執務の便を』得るための制服が望まれるようになった」からとしている。(出典:国税庁HP)

なお、酒税逃れの「密造取締りの調査の際には、間税職員が暴行を受けるといった事件もおこりました」とされていることから、収税官吏が密造者に暴行を受けるという事はあったようである(同上出典.酒税行政と酒税)。

そのための対処法として、間接國税犯則者處分法では第5条で「収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為すに當り必要なるときは警察官吏の援助を求むることを得」(下線筆者が付した)として、警察の援助が求められる規定を定めている。収税官吏は武器の携行を法令上許されていないためである。なお、同じ大蔵省(現財務省)職員でも、税関職員は小型武器の携行は認められている(関税法104条)。さらに、それに加えて臨検、捜索、差押等に際し必要な場合に警察官又は海上保安官の援助を求めることができることとされている(関税法130条)。

なお、戦後の1953(昭和28)年に施行された麻薬及び向精神薬取締法では麻薬取締官及び麻薬取締吏員は小型武器の携行ができる規定(第54条第7項)がある。

麻薬及び向精神薬取締法第54条第7項
「7 麻薬取締官及び麻薬取締員は、司法警察員として職務を行なうときは、小型武器を携帯することができる。」

(2) 戦前の漁業取締船と漁業監督吏員の業務状況

では、戦前の漁業取締船や漁業監督吏員はどのようにして漁業取締りをしていたであろうか。

上述のように、わが国は殖産興業の政策の下、漁業の動力化、遠洋、沖合漁業を興すことで漁業生産力を上げていった。そのため、繰り返すまでもないが規模の大きな漁業ごとに許可漁業とし、その取締りのため漁業取締規則を制定していった。

他方、戦前の農林省水産局は遠洋沖合の大規模漁業の幹部を養成する為、1888(明治21)年に大日本水産会により設立された漁業伝習所を、1897(明治30)年に農林省による官立の水産講習所として引継ぎ、漁業調査船を建造して北洋始め南洋等の漁場開拓に尽力していった。その後、水産講習所にあった試験部から枝分かれするように、農林省水産試験場(のちの水産庁東海区水産研究所)が設けられていった。農林省の所属の船舶は、その歴史的経緯から、漁業調査をしつつ取締船として活動していくこととなった。その当時の資料の多くが残ってはいないが、農林省の船舶は、漁業調査や漁業取締りをしつつも、漁場開拓、新漁業開発、漁業訓練ときには海洋気象観測と多面的な様々な業務を担ってきた。(表2)

表2 戦前の漁業取締規則と漁業取締船の建造(黒字は東京拠点、赤字は唐津拠点)
表2 戦前の漁業取締規則と漁業取締船の建造(黒字は東京拠点、赤字は唐津拠点)

特異な業務を担った漁業取締船もある。戦前、「農林省水産局が持っていた北洋向け取締船6隻のうち、祥鳳丸(176トン)は北日本の漁業の取締りに、得撫丸(224トン)新知丸(55トン)は北千島の養狐事業に従事しているため、俊鶻丸(531トン)、白鳳丸(332トン)、金鵄丸(161トン)が分担してこれに当たった。」(黒肱善雄 昭和51年。下線は筆者が付けた。)とされている中、キツネの養殖に水産局の2隻の取締船が従事していたのは意外であった。しかし、筆者は大きく年の離れた水産庁OBに次の事を聞いたことがある。当時は半信半疑であったが、「戦前は千島列島は日本の領土であったところ、この列島の管轄は農林省水産局が担っていた。その一環で毛皮として高価なキツネ(筆者注ギンギツネかアオキツネか)の養殖を行っていた。」ということであった。

更に漁業取締船が担った多様な業務を示す例をあげてみよう。

農林省の北洋看視船(筆者注:監視ではなく、看視船の字が使われている)である白鳳丸が、監視の傍らなんと千島列島で火山爆発で形成された新島を発見している。最近、伊豆諸島の西ノ島のそばに海底火山噴火で新たに島が形成されたが、現在は海上保安庁海洋情報部がその形成状況を観測しているが、かつて農林省の看視船が行っていた事実がある。これに関し、次の情報検索から見ることができる。

「1934年(昭和9年)1月26日北洋の冬季航海を実施し、航海気象を観測していた農林省の北洋看視船白鳳丸は北千島の幌筵島付近航行中、海底火山からの噴火による新島を発見している。同船船長の名前を取って『武富島』と命名された。」
(出典:HP 北極圏人会)
https://arctica.jp/report/horizon-in-oblivion-2/

この武富船長は、北洋を熟知し、色々な場面で活躍している。

その当時、農林省の船舶は、漁場開拓や航行に必要な気象観測なども実施し、現在の海上保安庁や気象庁の仕事も行っていたことが伺われる。

また、太平洋戦時体制が強化されていくと、農林省の船舶は海軍に借用され、軍に借用という形で、一般徴用船(気象観測船兼監視船)として俊鶻丸、白鳳丸、快鳳丸(逆に海軍から農林省に払い下げ)などが漁業取締船として使われ、北洋漁業の保護の任務に当たる等した。
(出典:HP 一般徴用船(気象観測船/測量船)
http://www.tokusetsukansen.jpn.org/J/413/index.htm

また、「各国の主張する領海は当時3海里が一般的であったが、ソ連は領海12海里を主張していた。このため北洋では、沿岸4, 5海里で操業する日本の母船式蟹漁業において被拿捕の問題が発生していた。この被拿捕問題に関し、農林省が監視船による警戒監視をおこなっていたほか、大正12年以来海軍が駆逐艦を派遣していた。」(井上彰朗 2018 P13)とされる。双方の国の主権の主張が異なっていたための摩擦であった。

このような記述は、大正3年「タラバ」蟹類採捕の取締規則が発布されたこととも符合し、往年水産庁で勤務していた複数のOB職員が、海軍とともに監視業務を行っていたと語っていたことと符合する。

なお、蟹工船の開発に関しては、当時農林省の水産講習所の漁業調査・訓練船が切り開いたものである。

現東京海洋大学の品川キャンパスに展示されているバーク型帆船の雲鷹丸(うんようまる)は、明治42年(1909年)から昭和4年(1929年)まで、各種漁業調査や実習、漁具開発に貢献するとともに船上でのカニ缶詰製造に成功し、後の大型蟹工船の先駆けとなったとされる。同船は平成10年に登録有形文化財に指定されたとされている。
(出典:東京海洋大学HP)
https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facilities/unyoumaru.html

このように農林省は官立水産講習所で遠洋漁業を担う幹部育成、新たな漁業開発や新規漁場開拓、利用加工新技術の開発を進めるとともに、漁業取締船も派遣して新たに遠洋漁業を産業として作り上げていった。しかし、太平洋戦争がはげしくなるにつれて漁船が徴用され、攻撃される漁船が増えるにつれて「戦中には、保護取締り対象の(漁船の)活動も低調になっていたとされ」ていくが、「一方、昭和14年4月対ソ関係の悪化(5月にはノモンハン事件始まる)、ソ連国境警備船の武装整備を受け、日本漁船の保護取締りのため、(農林省の)快鳳丸と俊鶻丸用に陸軍の重機関銃と実包の購入を請求するに至った。…その後、海軍の出師準備、戦争の勃発により大型動力漁船が徴用され保護・取締すべき船舶が減少し、数少ない漁業取締船の1隻である快鳳丸が海軍の指示のもとで運用されるなど監視・保護のための船艇規模の縮小が発生した。」(井上彰朗 2018 P44)

という状況で、太平洋戦争末期に向かうにつれて、漁業活動の停滞とともに漁業保護・取締活動も低下していったと思われる。

次に紹介する農林省水産局の2隻の船舶の多彩な活躍ぶりを通じて、数奇な運命と業務の幅広さを窺い知ることできよう。

農林水産省は遠洋漁業の開発漁場を北洋と東シナ海に注力してきた。

なお、この他に、後に世界の三大洋に展開する南洋にカツオ・マグロ漁業も開発していった。

(3) 北洋取締りの基幹船俊鶻丸—その数奇な運命—

北洋を中心に漁業取締りを行っていき、戦後でも奇跡的に生き残ったのがこの船である。

なお、農林省の船舶の活動振りを示す文献は数少なく、それは同省所属の多くの船舶が太平洋戦争で被弾、沈没したため、記録が逸散したためとも思われる。そのような中で黒肱善雄(同省船舶の船長と思われる)による、戦前から戦後にかけての農林省所属船舶の行動記録は貴重である。

黒肱の著作(黒肱善雄 昭和50)を元に、歴史を辿ってみよう。

農林省船舶について、実質的に水産局が所管してきたが、戦後まで生き残った船舶の1つに俊鶻丸(しゅんこつまる 総トン数531.71トン、1928〜1961年)がある。

先ず、その船名である俊鶻丸(しゅんこつまる)であるが、「鶻」の字は、昨今では見かけない漢字となっている。辞書(広辞苑)には「いかるが、あさなきどり、はやぶさ、くまたか」との説明があり、北方を自由に駆けめぐる大型の鳥であるようにと命名され、当時の北洋での任務と活躍を期待して命名された船名である。

黒肱に則り概略を示す。(黒肱善雄 昭和50. 下線は筆者が付した。)

昭和3年東京出港、船長は千島で海底火山による新島を発見した武富栄一船長で、処女航海は樺太西岸および北見沿岸のカニ繁殖状況調査、11月帰港。12月に水産講習所漁撈科の学生を乗せ南方漁場(シンガポール方面)調査、帰途台湾の高雄に寄港、翌昭和4年2月帰港。4月ホームグラウンドである北洋に向かい、4月16日函館港出港しオホーツク海と北太平洋で監視取締りに従事し、9月下旬帰港。その後、太平洋戦争までの10年余り、毎年4月から約5ヶ月間、西カムチャッカのカニ漁業、東沖のサケ・マス、アラスカ沖の取締り所謂北洋漁業の監視業務に従事、日本漁船の警備、領海侵犯の外国漁船を拿捕とか、カムチャッカ、沿海州の権益確保にあたるなどしていた。10月から翌3月までは、南方漁場の調査や沿海州沖の底曳きの取締りなど年により一定していないことが多いが、学生を乗せていることが多く、海洋調査、漁場試験にかなり重点を置いていたらしい。昭和15年12月横須賀で徴用され、海軍の海洋気象観測船となり、台湾の高雄を基地に南方のインドネシア方面の沿岸を測量、翌16年2月一旦徴用解除4月例年通り北洋の監視業務に、11月には再び海軍に徴用第1南遣隊所属となって太平洋戦争に突入。12月(中国の)海南島三亜港に入港。同港で重巡洋艦鳥海に打ち合わせ、敵性国の臨検を受けた場合に刺激を与えないよう小銃15丁、拳銃10丁を陸揚げ。南シナ海の気象観測中開戦を知り、(ベトナムの)サイゴンに入港、サイゴンを基地に気象観測、哨戒等任務、沿岸で投錨仮泊中に(英国の戦闘機)ハリケーン4機に襲われ、ボート等破損。
昭和17年任務解除、(中国の)厦門を経て瀬戸内海経由で2月東京帰港。修理しつつ造船所で、この時船首に小型砲、船橋と船尾に機関銃を取付け爆雷も搭載。一応の武装を終え、舞鶴鎮守府隷下の第5艦隊に配属となり、再びホームグランドである北洋へ。3〜4月単独北上しカムチャッカ半島のペトロパブロフスク等を沖から監視、米国商船の出入り状況偵察。6月のキスカ島占領の際には船団の援護。その後中部千島の陸軍部隊への食糧弾薬の補給、サケマス独航船の護衛、対潜パトロールなど。昭和18年2月、アッツ島に弾薬と増援の歩兵300名を急送。占守島片岡湾にて大時化の夜、俊鶻丸船長狭心症に倒れる、同島で荼毘。
18年夏ころ占守島方面で漁船の護衛、その後生鮮食料品獲得のため自ら漁撈しつつ、中部千島各守備隊へ補給。徴用後、海軍軍人多数乗船。この頃、農林省所属の船舶はほとんどが徴用されるなか、水産講習所練習船白鳳丸(1,327トン)が、硫黄島への物資兵員輸送の帰途昭和19年3月20日鳥島付近で雷撃され轟沈。水産講習所の要請により、練習船用に俊鶻丸の徴用解除され、19年8月東京港へ。戦乱下を生き延び、戦後水産講習所練習船として学生を乗せ東沖のマッカーサーラインや支那海の監視練習船として水産講習所から東京水産大学引き継がれ、同大学に24年4月海鷹丸が加わったため、俊鶻丸は水産講習所下関分所(第二水産講習所を経て現在の水産大学校)へ所管替え。昭和27年2月には、学生を乗せ実習を兼ね東支那海の監視取締りに従事。同年、戦後初めて北太平洋のサケマス漁業本格開始の際には、機関科学生の実習を兼ね5月から8月まで再び北洋に赴き、監視に当たった。しかし、戦後のことで漁船は整備不十分で、専ら救難船の役目を果たした。翌28年1〜3月は南太平洋の鮪調査に従事。同航海は練習船の戦後初の遠洋航海で、ホノルル、ヒロに寄港し、水産系大学の羨望の的に。その後毎回、インド洋のマグロ漁業調査に従事。しかし3月から11月の間は、漁業監視業務のかたわら学生の実習を。ある時期には船腹に大書した FISHERY INSPECTION VESSEL なる表示を、書いたり消したりした。その後、昭和29年3月1日に米国がビキニ環礁付近で水爆実験を行い第5福竜丸が被灰、そのため同年5月〜7月水爆の調査に行き、その後翌々年の31年5月米国が二度目の水爆。実験を行うとしたため、5月26日再びビキニ海域に調査に出航。6月13日にも米国が未発表の実験が行われたことを明らかにした。米国にとっては煙たい存在だったのか、その後、米国のグアム島に補給のために寄港したが、岸壁への上陸さえ認められなかった。最終航海はインド洋での漁業実習で、33年2月に下関に帰港している。同年9月に建造中の水産大学校の旗艦船となる漁業練習船耕洋丸(1,215トン)が竣工したため、俊鶻丸は33年間にわたる漁業取締船や気象観測船、哨戒船、練習船、そして水爆調査船などの多彩な業務をこなし重要な使命を果たし、船舶の生涯を終えることとなった。

(4) 以西海域の取締り大型取締船速鳥丸—その短かった生涯—

また、もう一隻わが国で最初の大型取締船である速鳥丸(はやとりまる 総トン数240トン、1913〜1927年)についても見てみよう。

同船の活躍の概況を記そう。

速鳥丸は、わが国最初の大型取締船として大正2年に建造された。総トン数240トン、1913 (T2) 〜 1927 (S1) 年と僅か14年間の短い船舶としての生涯を終えた。
同船は明治末のトロール漁業の発達により、近海漁業との衝突がしばしばおこるようになったため、明治42年に汽(筆者注:機と思われる)船トロール漁業取締規則をつくってその取締りに当たるべく建造したもので、先の俊鶻丸が農林省船舶の2大拠点であるうちの東京港を基地としていたのに対し、西にトロール漁場が発展していったため、西側の拠点であった佐賀県唐津港に基地を置いていた。同船は船名の通り当時として優秀船で最高速力12・25ノットの俊足であった。
同船はトロール漁業の取締りのかたわら、トロール漁業、延縄、流し網などの漁業指導調査にも使用された。建造されたその年に早くも上海沖のトロール漁場発見をしている。
翌年には取締り業務に従事中に島根沖で第2関門丸という違反船に逆襲衝突されるという事件があり取締船の武装の可否が論ぜられたとされている。
その後としては大正9年のシベリアの‘尼港事件’後、僚船の北水丸、隼丸とともに北上し、ニコライエフスクを根拠地に漁場調査に従事し、大正12年には南支那海に派遣され、おそらくトロール漁場の調査を目的であったろう。そして昭和2年4月30日にトロール漁業取締りのため唐津港を出て渤海湾に向かったが翌日済州島で暴風雨に遭い暗礁に擱座転覆し23人中22人が犠牲となり、残った1人も太平洋戦争で戦死された。同船の殉職追悼碑が海を見下ろす唐津公園に聳えている、と記されている。

以上、黒肱善雄氏の著作を多少長く引用させていただいたが、農林省の船舶が漁業取締船でありつつもかくも多様な任務を背負いつつ、それぞれの船が如何に数奇な運命をたどったかについて思いを馳せることができたのではないか。

他の農林省の船舶のそれぞれの運命まで紙幅の都合もあり紹介できないので、表にして記しておきたい。(表2)

現実には多くの農林省の取締船が多様な任務を果たしつつも、戦況が激しくなるにつれて軍隊、それも主に開戦前後から海軍に徴用され戦時中には被弾したりして撃沈されたり、戦争終了時には残った船舶はほんの少しとなり、船腹数を大幅に減らした。

ただ、もう一つだけ漁業取締りの歴史上書き忘れてはならない点がある。

わが国の漁業の展開と発展の歴史上、北洋と東シナ海は主要な2大漁場であった。上述の俊鶻丸のホームグラウンドが北洋であったのは述べた通りであるが、東シナ海の漁業取締りの主要任務について紹介する資料が殆ど無い。水産局、その後の水産庁の年長の旧職員でも以西の取締り基地であった唐津についての記憶をとどめる者は多くない。

西日本における農林省の船舶の漁業取締りの基地がなぜ、トロール漁船の在籍しない佐賀県の唐津に置かれたのかであるが、トロール漁船の基地である長崎や下関ではなく唐津に置かれたのは取締行動を秘匿するに恰好であり、以西漁場にも近いためであった。

大正2年建造の最初の大型取締船速鳥丸から戦後の昭和29年まで就航した取締船初鷹丸の用途終了までの40年間、唐津は以西漁業取締りの中心基地であった、同基地には常時3隻の取締船が配置されていた。(黒肱善雄 昭和51)(表3)

表3 戦前の主な農林省船舶
表3 戦前の主な農林省船舶

(5) 海軍解体と終戦後の漁業取締り基地の変遷

戦後、全国に水産局の地方部署が置かれることとなった。全国主要ブロック(現在、札幌、仙台、神戸、新潟、香住のちに境港、福岡の6か所)に各漁業調整事務所(局)が置かれ、九州においては福岡に昭和22年2月に九州漁業調整事務所が設置された。そのため唐津を基地としていた漁業取締船の基地は自ずと福岡へと移っていくこととなった。農林省水産局は 1948(昭和23)年に水産庁へと組織編成された。

振り返って、明治の改正漁業法では、漁業の監督を行なえる官吏等には警察などのほか5つの職種の官吏しか当たることができないとなっていたが、実際の遠洋や沖合の漁場での取締りは本土から遠く離れていたことに加え、漁業を対象にすることから船舶無くしては実効ある取締りができない。さらに、漁業に関する事件はロシアを筆頭に国際的問題や摩擦を惹起しかねない宿命を抱えていた。戦前では農林省の取締船だけでは足りない業務は海軍艦艇によって補われてきた。それが戦況が急を遂げるようになってくるにつれて数少ない漁業取締船も海軍に徴用されていった。

終戦後、GHQにより速やかに海軍が解体され、軍人も職を失い、海軍軍人を目指していた若者の士官養成学校でもあった海軍兵学校も無くなった。

海に関連した職業を目指そうとしたこれら学生にとって前途が閉鎖されてしまった。そんな中、一部若者にとっては、戦後海に関係する仕事をしている水産庁に職を求めた者が結構いた。

海軍士官学校に学んだ学生には戦後の水産庁は、同じ海に関連する職業であるとして就職の機会を目指す者も少なからずいたようだ。筆者も、「あの人は海兵上がりだ」という年長者の事を聞かされたことは希ではなかった。

これら海兵経験者の戦後の就業ルートであるが、海兵をへて大学や専門学校に進学し卒業した後水産庁に職を求めるというコースがあったようだ。

戦後解体されたこれらの海軍士官学校生の進学ルートから入ると、終戦の直後には大学入試制度の中にこれら学校生への門戸を開いていた、一例として東京大学の出願手続き(昭和21年)を見てみよう。その募集要項によると

「但し本設置は今回限りとし昭和22年度以降についてはさらに整理する予定…海軍兵学校…卒業者但し海軍兵学校 75期生…」も志願しうるとし、備考に「軍事関係卒業の入学者数は該当大学の学生総定員の1割としその取扱いについては別途通牒する」とされた。つまり当時の東大学生総数の1割は軍事関係卒業の入学者に特別枠として割当てられた。
(出典:東京大学校友会会報誌 37号. Indd)
www.u-tokyo.ac.jp/content/400123044.pdf


補足資料

明治33年3月16日  内閣総理大臣侯爵山縣有朋
大蔵大臣伯爵松形正義

法律第67号
間接国税犯則者処分法

  • 第1条 間接国税に関する犯則あるときは収税官吏は犯則事実を証明すべき物件、帳簿、書類等の差押をなすことを得
  • 第2条 収税官吏は犯則事実證明すべき物件、帳簿、書類等を蔵匿すと認むる場所に臨検し捜索をなすことを得
  • 第3条 収税官吏は犯則事件を調査する為必要と認むるときは犯則嫌疑者、参考人を尋問することを得
  • 第4条 収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為すときは其の身分を證する證票を携帯すべし
  • 第5条 収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為すに當り必要なるときは警察官吏の援助を求むることを得
  • 第6条 収税官吏捜索を為すときは捜索すべき難く、倉庫、船車其の他の場所の所有主、借主、管理者、事務員又は同居の親族、雇人、鄰佑にして成年に達したる者をして立會はしむべし
    前項に掲ぐる者其の地に在らざるとき又は立會を拒みたるときは其の地の警察官吏又は市町村吏員をして立會しむべし
  • 第7条 収税官吏犯則事實を證明すべき物件、帳簿、書類等を差押へたるときは其の差押目録を作るべし但し所有者は其の差押目録の謄本を請求することを得
    差押物件は便宜に依り保管證を徴し所有者又は市町村をして保管施しむることを得差押物件の保管證に関しては印紙税をおさむることを要せず
    差押物件腐敗其の他損傷の虞あるときは税務管理局長は之を公蕒に付し其の代金を供託することを得
  • 第8条 収税官吏は日没より日出までの間臨検、捜索又は差押を為すことを得ず但し現行犯の場合は此の限りに在らず
  • 第9条 収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為す間は何人に限らず許可を得ずして其の場所に出入するを禁ずることを得
  • 第10条 収税官吏臨検、捜索、尋問又は差押を為したるときは其の顛末を記載し立会人又は尋問を為したる者に示し共に署名捺印すべし立会人又は尋問を受けたる者署名捺印をせず又は署名捺印すること能わざるときは其の旨を附記すべし
  • 第11条 犯則事件の證憑集取は事件発見地の収税官吏之を為す同一犯則事件に付数税務署管轄区域内に於いて発見せられるときは各発見地に於て集取せられたる證憑は之を最初の発見地の収税官吏に引継ぐべし
  • 第12条 収税官吏前各条に依り臨検、捜索、尋問又は差押を為すは其の所属税務署の管轄区域内に限る但し既に着手したる犯則事件に関連し他の税務署の管轄区域に於て臨検、捜索、尋問又は差押を為すを必要とするときは此の限りに在らず
    税務署長は其の管轄区域外に於て犯則事件の調査を必要とするときは之を其の地の税務署長に嘱託することを得
  • 第13条 収税官吏犯則事件の調査を終りたるときは之を税務管理局長に報告すべし但し左の場合に於ては直に告発すべし
    • 一 犯則嫌疑者の居所分明ならざるとき
    • 二 犯則嫌疑者逃走の虞あるとき
    • 三 證憑湮滅の虞あるとき
  • 第14条 税務管理局長は犯則事件の調査に依り犯則の心證を得たるときは其の理由を明示し罰金若しくは科料に相當する金額、没収品に該當する物品、徴収金に相當する金額及書類送達竝差押物件の運搬、保管に要したる費用を指定の場所に納付すべき旨を通告すべし但し犯則者通告の旨を履行する資力無と認むるときは直ちに告発すべし
  • 第15条 第14条の通告ありたるときは公訴の時効を中断す
  • 第16条 犯則者通告の旨を履行したるときは同一事件に付訴を受くることなし
  • 第17条 犯則者通告を受けたる日より七日以内に之を履行せざるときは税務管理局長は告発の手続きをなすべし但し七日を過ぐるも告發前に履行したるときは此の限りに在らず
  • 第18条 犯則事件を告発したる場合に場合に於て差押物件あるときは差押目録と共に裁判所に引継ぐべし
    前項の差押物件所有者又は市町村の保管にかかるときは保管證を以て引き継ぎを為し差押物件引継の旨を保管者に通知すべし
  • 第19条 税務管理局長犯則事件を調査し犯則の心證を得ざる時は其の旨を犯則嫌疑者に通知し物件の差押あるときは之が解除を命ずべし
  • 第20条 本法に於て間接国税と穪するは勅令の定むる所に依る
  • 第21条 本法中市町村吏員又は市町村とあるは市制町村制を施行せざる地にありては之に準ずべきものに適用す

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 2019年12月10日閲覧
(筆者にてカタカナをひらがなに書換した)