第4章 明治時代における漁業制度の整備
(1) 明治になっての最初の漁業法
江戸時代になると、商品作物の栽培が盛んになるが、綿栽培などがそうであるが、その元肥えとしてのイワシの干鰯が流通するようになっていく。また、蝦夷地のニシンや昆布も北前ルートも開発されて大量に本州へ持ち帰られるようになっていく。この時代は、房総半島九十九里を主体に鰯は地引網で漁獲され、ニシンも北海道日本海側の番屋でやんしゅうが集められ、産卵期に短期集中型で漁獲が続いた。この頃の漁業について、どのような規制や取締りが行われていたかは、定かでない。むしろ、そのころの問題点は誰にどこに免許を与えるかというほうが重要であったに違いない。明治になっての最初の漁業法は、その与え方に主眼を置き、漁業権の免許の手続きを定めるものとなっている。
(2) 進められる大規模な漁業取締規則の制定と漁業摩擦
さて、明治になっても、従前から行われてきた江戸時代から続いてきた漁業の形態ややり方はそう急激に変わるはずもなく、依然として人力の櫓舟と帆掛け船で漁業が行われ、幕藩体制の下での各藩の漁業に関する施政を引きずっていた。水産資源に強い影響を及ぼす機船や鋼船が登場するまでにはまだ時間を要した。
幕末前後に英語通訳として活躍したジョン・万次郎のその時代の状況を見てみよう。幕末の1841(天保14)年1月に高知足摺岬の沖合で鯵鯖漁をしていた時に遭難しアメリカの捕鯨船に救われアメリカに渡ったジョン・万次郎は、5人乗りの櫓舟で釣りをしていた時流され、風にあらがうことができず漂流したとされる。また、ペリーが浦賀に向かって鎌倉沖を航行していた時、この巨大船を見とがめた小船の地元のカツオ漁船は、急遽地元の役人に伝えたとされるが、まだまだ近代的な内燃機搭載の漁船には程遠かった。
時は江戸時代から明治政府に移っていくにつれて、明治政府は殖産興業を目指し、欧米型の産業国家を追求していくこととなる。新政府は欧米の制度を採り入れ、欧米型の法律体系を取り入れようと、盛んに欧米の国々の制度を研究するため使節団の派遣を行ってきた。
時代が進んで、明治政府は治安の維持と殖産興業の面の充実を図らねばならなくなったが、漁業は勧業の観点からとらえられ、先ずは内務省に水産掛がおかれ、その後新設された農商務省に移管され、1885(明治18)年に水産局が置かれた。その後、行政改革のあおりで一旦組織縮小されたものの、再び1897(明治30)年からは水産局として常設され、水産局は戦後の1948(昭和23)年になって農林省の外局として水産庁へと組織再編されるまで続いてきた。水産局としては63年(常設されてからは51年)間にわたり、また水産庁となってから72年が経過し計135年が経過し現在に至っている。
明治政府にとって、最初に漁業法が作られたのは1901(明治34)年であるから、水産局常設設置の4年後である。こうして、国としての水産局の組織と体制が整ってきた「(濱田武士、佐々木貴文 2020 第1章)。
それに至るまでの、各地方の漁業は、各地の漁業者同士で作り上げた自主的ルール、藩の権力による漁業規則が何らかの形で残った。国の中央集権による水産体制が整うまで、各府県等は国の体制整備を待つまでもなく日常の漁業秩序を保たねばならず、各府県等がそれぞれ江戸時代からの慣例に従い、国を先取りし「捕魚採取藻取締規則」「漁業取締規則」を定め府県等の漁業行政を司った。
各県のそれぞれの規則を詳らかにする余裕はないが、山口県の漁業取締の歴史が参考になる(有薗眞琴 平成14 P50〜52)。
それによると、国による最初の漁業法が制定される1901(明治34)年よりも11年以前に、「(山口)県は、明治23年(1890年)に制定した『漁業取締規則』によってその取締りと保護を励行してきました」とし、「明治39年・44年・大正8年と逐次改正した」とする。「44年(1911年)の改正では、瀬戸内漁業に対する制限禁止の章を設けたとし、政府も瀬戸内海における乱獲を防ぐため、42年11月に『瀬戸内漁業取締規則』を設けたが、なかなか励行されませんでした」としている。
また、「政府は(瀬戸)内海漁業不振の原因として、漁場に比べて漁民の数の多いことをあげ、その打開策として朝鮮海への通漁と漁民の移住を奨励するよう指示」したとされる。
他方、明治政府は遠洋漁業奨励法を1897(明治30)年に公布したが、そのことは漁船の機械化と大型化が進む中で、「零細な沿岸漁民は機船底曳網による無法な乱獲により苦しめられた」とした。
山口県は「政府は大正10年9月に『機船底曳網漁業取締規則』を公布したがそれだけでも十分でなかったため、沿岸零細漁民は禁止区域の拡大と違反船の取締り強化を求めて広範な請願を行った」としている(下線は筆者が付した)。
ここで特徴的なのは、「(山口)県は下関水上警察署に漁業取締りのため防長丸(明治41年建造、最大速力10ノット)と鴻城丸(明治37年建造、最大速力9ノット)の2隻を配置し。違反船の検挙に務めましたが、この両船は老朽船である上、予算不足のため燃料石炭も毎月10日分くらいしかなく、十分な取締まりは出来ませんでした。こうして沿岸水産資源は次第に枯渇していきました。」としている。
ここで注目したいのは、山口県は漁業取締の実行を警察の水上署に求め、そのための船を配備したという事である。
政府が遠洋漁業奨励法を公布した1897(明治30)年は、ちょうど農商務省に水産局が常設された年に当たり、これを契機に遠洋漁業や沖合漁業が急速に伸長していく。最初の漁業法1901(明治34)年の条文の中には漁業に関する取締官の制定に関する条項はなく、主に漁業権の事だけが規定された。しかし、遠洋漁業奨励法が制定されてから次の漁業法改正1910(明治43)年の頃には、遠洋・沖合漁業が拡大してきて、これらの強力な漁業については許可制にしていくとともに操業区域・禁止区域等を制定したため、それに伴い取締りが必要になった。そのため、大規模な漁業から順次年を経るにつれて漁業種類に応じて取締規則を定めていくことになる。(表1)
これはいわば、遠洋漁業奨励法で強大な漁業を育成するため、奨励金を与えアクセルを噴かせ漁業を育成するとともに、育ってきた大規模で強力な各漁業種類から許可制を敷いていき、漁業の秩序を順守させることとしたものである。これら漁業取締規則を制定してブレーキとして制御していくこととなった。
この奨励策の下で、実際遠洋漁業が北洋や南洋、東シナ海等に膨張拡大していくこととなり漁業生産力の面で大いに拡大し、光の面から見れば殖産興業や富国の観点から国策として望ましいことであった。他方、影の面としては特に沿岸に隣接して沖合で操業する機船底曳網漁業は沿岸漁業者との間に深刻な摩擦を起こしていくこととなった。
特に機船底曳網漁業は機動性があり漁獲圧力が強いため資源枯渇を招き、零細沿岸漁業者にとっては生活の困窮を引き起こすことから、上述のように山口県でも漁業取締規則で定められた禁止区域の拡大要求請願と高速な取締船の導入などを求めていくこととなった。
そこで、国は1910(明治43)年の改正漁業法第41条で、初めて「漁業監督」が条文に書き込まれることとなった。これも、大規模な漁業の発達・拡大にともなう明治時代末の時代背景であった。
漁業法(明治43年)の条文によると、次の官吏が漁業監督をできると定めた。
明治改正漁業法 1910(明治43)年
- 第41條 海軍艦艇乗組将校、警察官吏、港務管吏、税關官吏又ハ漁業監督吏員ハ漁業ヲ監督シ必要アリト認ムルトキハ船舶、店舗其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿物件ヲ検査スルコトヲ得
この漁業法が制定された1910(明治43)年は、日清戦争1894(明治27)年を経て、日露戦争 1904(明治7)年の後であった。
明治政府は、憲法(1889年公布 1890年施行)をはじめ、民法(1896(明治29)年法律第89号)から刑法(1907(明治40年公布、1908年明治41年施行)などを取り入れるとともに中央集権国家体制を作り上げていく。
又、新しい国家と政府を維持しようとこれまでの農本主義的な、石高による物納財政体制から貨幣による金納体制を立ち上げていこうとした。
(3) 海軍艦艇乗組将校や漁業監督吏員が漁業監督にあたる事に
近代的法律体系に基づく、漁業に関する法令は明治時代における漁業法1901(明治34)年4月13日法律第34号に端を発する。
明治34年の漁業法には条文上一応「取締り」なる用語が出てきてはいる。同漁業法に基づき同35年に制定された漁業法施行規則の第4章の見出しは「蕃殖保護及漁業取締」(下線は筆者がつけた)が見られる。
第55条には、「定置漁業及特別漁業ニ関シテハ行政官庁ハ漁場取締ノ為命令ヲ以テ保護区域ヲ設クルコトヲ得」(下線は筆者が付した。原文は旧漢字、数字には漢字表示で示されているが、筆者が現代の漢字、アラビア数字に改めた。)
ただ、この時の漁業法には取締りを行う役人(官吏)を明示的に示す条文はなかった。
初めて、漁業取締を行う役人(官吏)を明示的に示した法令としては、上述の明治43年の改正漁業法第41条が最初である。
この頃、明治政府は欧米に追いつけとばかり、遠洋漁業や機船漁業の育成に邁進してきた。
そうすれば、これまでの沿岸で行ってきた小規模の沿岸漁業との摩擦は当然頻発するのは必至である。政府はそのため、これら漁業に関して強力な規制をする法令を矢継ぎ早に制定してきたことも記した。
「大日本水産史」(片山房吉 昭和12年)によれば、漁業法に基づいて、農商務省及び農林省から発布した取締規則の先駆は明治42年6月1日から施行した機船トロール漁業取締規則だったとしている。そしてその規則の制定の理由を次のように記している。
「本規則は、水族の蕃殖保護と、一般沿岸漁業保護の必要からして、トロール漁業を許可漁業として、農商務大臣の許可をうけしむることと、禁止区域を定めて、一定地区内の他の漁業を保護することを目的としたものである。」(片山房吉 昭和12。下線筆は筆者が付した。)
次いで、年を追って取締規則が制定されていく。片山に沿っていくと
明治42(1909)年 11月に鯨漁取締規則
明治44(1911)年瀬戸内海における漁業取締に関する規定、
この二つは水族の蕃殖保護の必要上からとされた。
また、「明治42年に水族の蕃殖保護に関する取締方に関して訓令を出して、更に明治44年には取締りの実行を期する為に、漁業監督吏員に関する勅令を発布して積極的に非違の取締をすることとなった。」(片山房吉 昭和12。P349)
43年に漁業の監督に当たることのできる官吏は海軍艦艇乗組将校など5つの職種としたが肝心の漁業の専門の漁業監督吏員にはどういう資格を有する者が任命されるのかは定められていなかったので、その「取締りの実行を期すため」、44年に勅令により政府はどういう者が漁業監督吏員となれるかを最初に明示的に示すこととなった。
(4) 漁業監督吏員になれる資格の変遷
ではその公務員(官吏)制度の勅令はどうなっているか。
明治44年の漁業監督吏員ニ関スル件(明治44年3月勅令第27号)では、下記にみるように、漁業監督吏員になれる資格を、農商務省と府県等の漁業に関する事務を掌理する官吏と府県等の水産試験場及び水産講習所の職員、道府県郡市の水産技師及び水産技手も対象とすることとした。ただし、財政面で、道府県等で漁業監督吏員を置きたいなら、国としての支援は無いので地方費等の自前の財源でまかなえとの姿勢であった。
漁業監督吏員ニ関スル件(明治44年3月勅令第27号)
- 第1條 漁業監督吏員ハ左ニ掲グル者ヲ以テ之二充ツルコトヲ得
- 1 農商務省及道庁府県郡並島庁ニ於イテ漁業ニ関スル事務ヲ掌理スル官吏
- 2 道府県郡市立水産試験場及水産講習所ノ職員
- 3 道府県郡市ノ水産技師及水産技手
- 第2條 前條ノ漁業監督吏員ハ農商務省ノ官吏ニ付イテハ農商務大臣、其ノ他ノ者ニ付イテハ地方長官之ヲ命ス
- 第3條 北海道廰長官又ハ府縣知事ハ北海道地方費又ハ府縣費ヲ以テ特ニ漁業監督吏員ヲ置クコトヲ得
この勅令が出されてからも、遠洋や沖合漁業の拡大発展は目覚ましく、その後さらに大正時代から昭和の初期にかけても漁業種類ごとの取締規則は発布されていく。
大正3(1914)年 「タラバ」蟹類採捕の取締規則発布
大正10(1921)年 機船底曳網漁業取締規則
大正12(1923)年 工船蟹漁業取締規則
昭和4(1929)年 母船式鮭鱒漁業取締規則
昭和8(1933)年 秋刀魚漁業制限に関する省令
昭和9(1934)年 母船式漁業取締規則(従来の工船蟹漁業と母船式鮭鱒漁業に、母船式鯨漁業を加え統一した取締規則とした)(片山房吉 昭和12 P349)
しかし、その勅令の出された 10年後の1921(大正10)年には、漁業監督吏員に関する先の勅令は改正される。
下記にみるように、漁業監督吏員になれる対象者から府県等の水産試験場や水産講習所の職員などのいわゆる調査研究機関の職員と、道府県郡市の水産技師及水産技手等を文言上対象から外している。その理由について、筆者のこれまでの文献調査の範囲では明らかでないが、教育史に詳しい北海道大学水産学部佐々木貴文准教授は、「おそらく、試験研究機関の職員はサイエンス(科学)に関する仕事が増大し、法令や規則等を扱う取締り業務は扱うのが難しくなったのではないか。」(筆者が2020年1月21日聴き取り)とされる。郡市の水産技師を外したのも専門性の高い者に絞ろうとしたのではないか。
漁業監督吏員ニ關スル件
大正10年2月勅令第17號ニ依ル改正
- 第1條 漁業監督吏員ハ左ニ掲グル者ヲ以テ之二充ツルコトヲ得
- 一 農商務省及道廰府縣郡竝島廰ニ於イテ漁業ニ關スル事務ヲ掌理スル官吏
- 二 漁業ニ關スル事務ヲ掌理スル地方産業職員
- 第2條 前條ノ漁業監督吏員ハ農商務省ノ官吏ニ付イテハ農省務大臣、其ノ他ノ者ニ付イテハ地方長官之ヲ命ス
- 第3條 北海道廰長官又ハ府縣知事ハ北海道地方費又ハ府縣費ヲ以テ特ニ漁業監督吏員ヲ置クコトヲ得
附則
本令ハ明治四十四年四月一日ヨリ之ヲ施行ス
附則 (大正十年二月三日、勅令第十七號)
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
なお、農林省所有船の中で調査船を目的として初めて1919(大正8)年5月に鵬(おおとり)丸(192トン)が竣工している。同船は大正8年から4年間で露領沿岸の全てを運行調査するという大事業を成し遂げたという。かといって取締りや治安関係は無関係であるわけにはいかず、鵬丸はロシアの尼港事件(注)で最初に駆け付けた軍関係以外の船の第1船であった。しかもロシア革命の混乱に備え常備南部式拳銃20丁のほか、陸軍省からの機関銃1丁、騎兵銃15丁などを備えていたというから、監視業務と截然として無縁ではなかったようだ。ただ、調査が主業務となれば、時期を追うごとに増えていく漁業種類ごとの取締規則を理解し、その規則の執行を片手間で行うことは難しくなっていったのではなかろうか。いわば、漁業に関する業務に専門性に特化した分業が進んで行ったようだ。
- (注) 1920年シベリアのアムール川河口のニコライエフスクにてパルチザンとの衝突により日本軍や日本人居留民700人余が虐殺された事件