水産振興ONLINE
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2020年7月

漁業の取締りの歴史—漁業の取締りの変化を中心に—

末永芳美(元東京海洋大学大学院 教授)

第3章 漁業の取締りの始まり

(1) 我が国における古代から江戸時代までの漁業の枠組み

中国の史書、魏志倭人伝には邪馬台国の卑弥呼に金印を送ったことが記されているが、同時に倭人の民俗に関する記述もある。それは、倭人は体に入れ墨をし、海に潜りあわび等の海産物を獲っていると書かれている。このことは日本人が、古来から良く海産物を利用し摂取してきた証左の一つでもある。

又、漁業関係者には広く知られたことであるが、養老律令(701年)の雑令には、「山川藪澤の利は公私これを共にす」と書かれ、海を含め山や川、藪(雑草雑木地)や澤(湿地)といったこれらの自然地は独占されるものでなく、入り会って利用すべきで、これら自然地の独占による占有を認めないこととし、皆で利用せよとされた。

こういった我が国の海の利用に関する律令的背景のもと、海の利用は入会を原則として形成されてきた。

入会の理論として、資源に対して利用する側の圧力が低い場合、すなわち資源が十分に存在し、少々の利用(採集)を加えても資源が減らない状態では、利用する人間側は己の欲するところに即して需要を満たすことができる。そのため、利用者同士の間で紛争は起こらないが、徐々に人口増加や利用する量が増加して需要が大きくなれば、どうしても利用者間で争い事、紛争が生じてくる。

そのため、時代が下って、江戸時代においては、利用頻度の高くなる沿岸近くの前浜の磯猟場は一村専用漁場として地元の漁村民が優先的に利用することとするが、その沖合は自由に入り会って各人が漁業を行ってよいとした。それが「磯は地付き、沖は入会」律令要略(寛保元年 1741年)と定められて、現代にいたるまでわが国の漁業の枠組みとされた。

江戸時代まで、山地や原野、河川の水の利用などは同様な原理で、特定の者による独占を許さず、関係者間で自然資源を利用するルールを定めて資源が枯渇しないよう利用されてきた。そのため、利用者間では資源が枯渇しないよう自主的なルールを定めてきた。

それでは、江戸時代には、具体的にはどのようなルールのもとに漁業資源の利用がなされてきたのだろうか?

(2) 入会者同士の自主的ルールと公権力による漁業規制

江戸時代におけるサケに関する操業ルールと資源保護について二つの事例が紹介されている(渡辺尚志 2019)。

渡辺によれば、一つはサケを捕獲し利用する側の間で定められたルールである。いわば近代的な言葉で言えば、民間側で慣行的に定まったルールである。引用すると、

岩手県宮古市の津軽石川はサケに関し、河口部の四村が、「共有の漁場を日替わりで利用してサケ漁を行っていた。そして漁場の利用に関しては『瀬川仕法』という共通ルールが定められていた。その内容は、次の二点である、①操業時間は午前八時から午前一〇時ころまでとする。②川で孵化した稚魚を保護する。」とするものであった。その理由を、夜間に溯上し産卵する習性があるため、これを避けることと、孵化したサケの稚魚を保護するためとしている(渡辺尚志 2019 P44。下線は筆者が付した。)。

二つ目は藩が定めて取締りを行ったルール、いわば公的ルールである。これが公的権力による取締りの始まりであろう。新潟県北部を支配した村上藩は種川制度と呼ばれるサケの資源保護制度を実施していたとし、その内容を概要次のように紹介している。

「種川では産卵後のサケのみ捕獲してよいとされ、さらに夜間のサケ漁や稚魚の捕獲は厳禁された。…種川制度の導入前から、三面川の流域住民は小魚の漁を行っており、そこでは小魚とともにサケの稚魚も捕獲された。藩ではそれを問題視して、寛政七年(一七九五)に小魚漁の禁止令を発布した。…また、種川制度では夜間の操業が禁止されていたが、藩ではそれに違反して夜間に漁をする人びとを、下級役人を使って摘発・処罰した。このように、種川制度は、一般の民衆に対する監視体制の強化を伴って実施されたのである。」
(渡辺尚志 2019 P46〜47。下線は筆者が付した。)

江戸時代は幕藩体制であったため、いわば地方分権であった。村上藩が公権力を背景に強制力を持って、処罰を伴う禁止令を発した。これは漁業取締りの生い立ちの一例と考えられる。

なお、渡辺は、村上藩の禁止令の政策としての背景を示している。
ここも引用すると、

「種川制度はサケの漁獲量拡大による漁業税の増収を目論む藩の政策志向の産物でもあった。支配者が収益増大を目指して漁業の振興を図り、小魚や夜間の漁などそれに抵触する民衆の動向を取り締まるというものである。このようなあり方は明治政府に継承され、漁業資源繁殖政策として、全国に拡大して実施されることになる。村上藩の種川制度は、その原型をなすものであり、近代の漁業政策の基調を先取りするものであった。資源保護のためには、一定の規制が必要となる」(渡辺尚志 2019 P47〜48 下線筆者が付した。)

だが、実際に明治政府が立ち上がり、漁業資源保護のための規則や法令が整備されるまでには、なお時間を要した。その点は後述する。