第三章 縮小再編下の大手メーカーと造船所の展開
東日本大震災の影響
東日本大震災では被災した漁船数は28,612隻であり、漁船保険が支払われたのは、うち20,590隻以上です。保険支払額は約462億円です。うち、支払い保険対象となった漁船のうち、船外機が14,284隻、5トン未満が4,364隻でした。数で見れば、小規模な漁船が圧倒しています。
震災後、漁業者は再開に向けて動き出しましたが、財産も船もない状態となりました。多くの漁業者が途方に暮れていましたが、震災から2ヶ月後には共同利用漁船等復旧支援対策事業が決まり、漁船を漁協所有にして組合員に貸し出すという財政支援策ができました。補助率は国と都道府県で2/3あり、残りを所有者(=漁協など)が負担するという内容でした。実際は所有者だけでなく、残りの2/9を基礎自治体が負担しました。つまり、所有者は1/9負担となりました。
こうした手厚い漁船取得の手法が準備されたことが、漁業者の再開意欲を高めて、漁船の発注が一気に拡大しました。しかし、被災地の造船所は供給体制の整備に時間がかかります。それゆえ、水産庁がメーカーへFRP船の供給体制の強化を要請しました。ただし、年間の供給体制には限界があり、現有のままでは十分な供給体制は構築できません。例えば、ヤマハグループでは、2013年3月までに約4,000隻の製造を担うことになりましたが、震災前年の2010年の漁船・和船の製造数が約250隻でありました。工場によっては20年分を3年間で供給しました。ではどうやって対応したのでしょうか。
ヤマハマリン天草製造の工場では、震災前の生産縮小で退職したOB・離職者や被災地の造船関係者を臨時雇用者として44人集めて、生産ラインを2から4に倍増させて、供給体制を構築しましたⅵ)。月に100隻を生産しました。また、震災後は契約特約店など工事を担う業者も被災していたため、FRP船体だけを供給しても漁業者の手に漁船が行き渡りません。そのため、ヤマハ発動機は、宮城県柴田郡村田町にある国際サーキット「スポーツランドSUGO」の併設の屋内テニスコートを艤装センターにして、そのなかで、技術者20名を集めて漁労機器などの艤装まで対応しました。北海道、天草、志度の工場からFRP船殻を必要に応じて艤装センターに送り、艤装後各浜に供給するというサプライチェーンを築いたのです。
ヤンマーグループは、ヤンマー造船の工場と、被災した大船渡の須賀ケミカル(2011年4月から再稼働)を含めた全国10カ所の造船所が協力工場となって供給体制を構築しました。震災前、ヤンマー造船の大分工場は、レジャーボートの製造が中心となっていましたが、漁船を含めた受注が少なくなっていたことから、生産調整体制に入っていました。このため、ヤンマーグループでは自社工場だけでの対応が不可能で協力工場を確保しての生産となりました。
こうして震災前に生産縮小していた供給体制を大量供給体制に変えていきました。大量供給体制にすると、コストが落ちるかと考えられがちですが、このような短期間だけの大量供給体は、制急な整備を要するため、むしろコストは落ちません。荒稼ぎしたのではないかと、思われがちですが、それは間違っています。
他の中小造船所も同じです。人手を確保できればまだしも、人手を確保できなければ現有の従業員で対応しなければなりません。中小造船所の多くは休みなく工場を稼働させました。
- ⅵ 「ヤマハ発動機、復興漁船の大増産で見せた「執念の現場力」」(日本経済新聞、2011.11.1)