水産振興ONLINE
水産振興コラム
20241
おさかな供養のものがたり

第10回 ハタハタをめぐる戦いの歴史

田口 理恵
(元東海大学)

日本人は太古よりさまざまな魚を食用などの資源として利用してきました。また、魚の命をいただくことへの感謝と鎮魂の念を示すため、供養碑の建立など弔いの慣習も育んできました。東海大学海洋学部の田口理恵先生(故人)を代表者とする研究者の方々は、全国各地にあるさまざまな魚の供養碑を詳細に調査され、2012年に『魚のとむらい 供養碑から読み解く人と魚のものがたり』(東海大学出版部)を刊行されました。(一財)東京水産振興会は、出版記念として同年に「豊海おさかなミュージアム」で魚の供養碑に関する展示を行い、翌年2月に供養碑に関するシンポジウムを開催いたしました。本書は現在入手が困難ですが、漁業や漁村を理解していただける大変貴重な内容ですので、この度、東海大学出版部などのご承諾を得て、本連載を企画いたしました。ご承諾をいただきました皆様にあらためて感謝申しあげます。

北日本の日本海沿岸で獲れるハタハタは、スズキ目ハタハタ科の魚で、通常は水深250メートル前後の深海底に棲息し、冬型の低気圧が強まり、時化によって海水が攪拌され沿岸水温が低下すると、水深2~3メートルの藻場に産卵のためにやってくる。漢字では「鰰」「鱩」「神魚」「雷魚」「神成魚」「波太多雷魚」「佐竹魚」などと表現される。ハタハタの塩漬けや干物は正月用の食べ物となり、「鰰」の文字には、ハタハタがなければ正月が迎えられないといった気持ちが込められているのだろう。ハタハタが沿岸に群遊してくる頃は、冬の低気圧によって雷が鳴り響くようになるため、「鱩」や「雷魚」「神成魚」「波太多雷魚」という文字があてられる。「佐竹魚」というのは、佐竹氏が秋田に転封された際、ハタハタも佐竹氏を慕って常陸の海から秋田の海にやってきたといわれるからだ。

ハタハタは秋田県の県の魚であり、男鹿半島の人々が為し遂げたハタハタの資源管理型漁業は、持続可能な資源管理の事例として世界的にも注目されている。

江戸時代にはハタハタは藩の重要な収入源として重視され、18世紀まではハタハタ漁は操業許可制で、引網株をもつ特定の網元のみにハタハタ漁が許されていた。また本荘藩では漁期中に鳴り物や海岸に火を入れることを禁止し、金浦村では産卵保護のため磯草の採取を禁じるなどの保護政策もとられていた。また、能代の商人平川文左衛門が1793(寛政5)年にハタハタ干しか(鰰干鰕)の生産に成功すると、その製造法が広まり、ハタハタ干しかは秋田藩の主要産品の一つになっていく。平川文左衛門の干しか製造法は、納壺という浜辺に掘った穴に、笹を敷いてハタハタをいれ砂で覆い、翌春に掘りだし乾燥させて干しかを作りだすものである。ハタハタの干しかは「上方の藍の肥やしに上品」として評判をよび、1839(天保10)年には藩が干しかの専売に乗り出している。

藩公認の引網株をもつ網元がハタハタ漁を独占する状況下、干しか生産によるハタハタの需要が高まるなかで、天明飢饉に見舞われ、零細の漁民たちはハタハタの手繰り網漁を秘かに始めるようになる。天明年間には男鹿南磯(男鹿市船川港)の肝煎・近藤武兵衛と北磯相川村の肝煎三四郎両名が、ハタハタの手繰り網の自由操業を願って越訴に及ぶが、その願いは叶わなかった。1830(天保元)年に金川村の漁民が手繰り網の自由化を藩に要求し、制限つきで認められた。そして1835(天保6)年には、藩は各村、各家の手繰り網自由操業を認め、漁民たちはついに宿願を果たしたのである。

明治時代になると、秋田県はハタハタの資源保護政策を条例化している。1882(明治15)年には、海中の藻に産みつけられた卵塊(ブリコ)を採ってはいけないと、魚卵の採捕を禁止し、翌年には、手繰り網が海底を荒らし、幼稚魚も獲ってしまい資源繁殖に悪い影響を与えるとして手繰り網漁を禁止した。さらに1906(明治39)年の漁業調整規制では、浜にうち上がるブリコの拾いも禁止するようになる。しかし、大正期に動力船が普及すると、ハタハタ漁も様変わりし、沖合での底引き網漁でハタハタが大量に捕獲されるようになる。

秋田近海でのハタハタ漁獲量は、明治以降、豊漁・不漁を繰り返しながらも数百トンから数千トンの間で推移してきたが、1963(昭和38)年に約12,000トンを記録する。以後13年にわたって1万トン以上の水揚げが続き、空前の豊漁期を迎える。しかし1984(昭和59)年以降は漁獲量が急激に減少する。1985(昭和60)年には県主導で秋田県漁業資源対策協議会が結成され、翌年にハタハタを含む主要7漁種に自主規制措置をとるが、漁獲の減少は止まらず、1991(平成3)年になると72トンにまで落ち込む。資源の回復をはかるために、漁業者たちはハタハタ禁漁という手段を選んだ。平成4年8月29日の全県組合長会議で3年間の全面禁漁を決定し、平成7年の夏まで全面禁漁が続けられた。解禁後はハタハタ資源対策協議会を組織し、毎年、漁獲対象資源量を推定し、その半分を漁獲枠にするなど、漁獲量上限を設定し、同時に種苗放流と藻場造成整備も進めるなど、資源管理型漁業への取り組みを始めた。禁漁解禁年の平成7年に142.5トン、8年に243.3トン、9年に452トンと漁獲は確実に増加していった。

船川港の鰰供養碑
鰰神社

男鹿半島沿岸のあちらこちらでハタハタにまつわる碑を目にすることができる。船川港の金川八幡神社には手繰り網自由操業を願って越訴に及んだ肝煎・武兵衛のために建てられた「日銘之碑」(1841)と「武兵衛翁顕彰碑」(1977)がある。真山神社や、船川神明社境内の佐竹神社では、ハタハタを象ったご幣でくじを釣り上げ、初漁時期、方角、豊漁・不漁を占う鰰占い(おみくじの儀)が行われている。洞泉寺や永禅院、日枝神社で鰰の供養祭が行われていたという。船川港には、1992(平成4)年11月18日に、船川地区地崎護持会創設30周年の記念で船川港漁協が建立した大きな「鰰供養碑」が建つ。八郎湖に通じる船越水道河口近くの高台にある鰰神社には、海にむかって「鰡塚」(1901)、「鰰大漁供養塚」(1905)、「鰰供養塔」(1908)、「雷魚大漁塚」(1926)など6基のハタハタ供養碑が並ぶ。男鹿市北浦の相川にも「鰰供養塚」(1754)が、北浦の雲昌寺に「當山鎮守 龍道大龍王 戒道大龍女」(1965)の碑がある。ハタハタの漁獲が12,000トンを記録した1902(明治35年)には、潟上市の出戸浜や江川浜にハタハタの大漁記念碑が建てられている。

これらの碑には、ハタハタをめぐる人々の苦心と戦いの歴史が刻まれている。

佐竹神社の鰰占いで奉納されるハタハタのご幣

参考

文章の一部について補足修正をしています。

連載 第11回 へ続く

プロフィール

田口 理恵(たぐち りえ)

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。国立民族学博物館・地域研究企画交流センターCOE研究員の後、東京大学東洋文化研究所、総合地球環境学研究所を経て、2005年より東海大学海洋学部海洋文明学科准教授。2014年逝去。
著書『水の器-手のひらから地球まで』(共編著、人間文化研究機構)『ものづくりの人類学-インドネシア・スンバ島の布織る村の生活誌』(単著、風響社)「魚類への供養に関する研究」(共著、『東海大学海洋研究所研究報告』第32号)「もてなしと関わりのなかの水-スンバ島とラオスにおける飲み水の位置」(『人と水-水と生活』、勉誠出版)