西欧化する日本と八雲の苦悩
夏目金之助が生まれた1867(慶応3)年といえば王政復古の年です。翌年に鳥羽伏見の戦いが勃発し、明治政府が発足。そして亡くなったのが1916(大正5)年ですから、漱石は近代日本とともに誕生し、明治期をフルに生きた文豪といえるでしょう。
一方、ラフカディオ・ハーン(以下、八雲)は1850年、ギリシアに赴任していた英国軍所属のアイルランド人の父とギリシャ人の母のもとに生まれました。漱石とは17歳違いです。
八雲が来日したころの日本はというと、前年に東京—神戸間の鉄道が開通し、大日本帝国憲法発布。来日した1890年には第1回衆議院議員総選挙が実施され、第1回帝国議会が開会されています。
来日4年後には日清戦争、死去した1904年は日露戦争開戦の年ですから、八雲はまさに日本の近代国家への転換期を経験したわけです。
伝統的な文化、習慣、社会システムを捨て近代化・西洋化に邁進し、さらに太平洋戦争後にそれが加速した結果、今では自由主義、民主主義、個人主義、合理主義、ヒューマニズム(人間中心主義)、資本主義という価値観が私たちの常識になっています。
八雲は日本人の無私を基本とした共同体意識、人間中心ではなく自然やモノを大切にする価値観、お化けや妖怪など不合理な存在も受け入れる心がことごとく失われていくことを危ぶみました。
なのに自分自身も英語教師として日本の近代化・西洋化の片棒を担いでいるわけですから、深く苦悶するわけです。
《社会が社会として維持されているのは、いま生きている人が御先祖様を有難いと思っているからである。子供が親に孝行をする、という感覚は、親が亡くなった後でもお墓参りをする、という故人を偲ぶの情に現れる。たといほかの誰が見ていなくても、こうしたことをしてはご先祖様に対して相済まない、お天道様に申訳ない、そういう気持ちがあればこそ日本社会は他の社会に比べてはるかに安定しているのである。》(『日本雑記』「お大の場合」)
第二次世界大戦後の1946年、ルース・ベネディクトは『菊と刀』を著し、欧米のプロテスタント系文化を「罪の文化」と呼び、日本文化を「恥の文化」としました。
人の行動原理が欧米人は「罪の文化」= 内面的な罪の自覚に基づくのに対し、日本人は「恥の文化」= 世間体、外面を意識して行動する……と分析したのは有名ですよね。
なるほどなあ……と納得していたのですが、八雲の著作群を読むと、日本人は八百万の神や先祖崇拝に基づいて行動する。お天道様やご先祖様に申し訳ないと感じ自らを律しているのだから、一概に世間体を気にして行動するとは言えないとも反論できます。
《神道を分かろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。何しろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。》(『新編日本の面影』「杵築」)
日本に体罰はなかった?
日本人の精神や伝統を礼賛する八雲の作品群を読むと面映ゆいですし、語るとなると保守反動、復古主義だと批判されやすいのでナイーブになるのですが、八雲の愛した日本は私たちが考えがちな昔の日本 =「和を尊ぶタテ社会、ムラ社会的な集団主義」とは少し異なります。
たとえば今でも問題となる「教師による体罰」。昔からある習慣(必要悪)と思いがちですが、八雲が教壇に立っていたころの日本には体罰というものはありませんでした。
英国時代、寄宿学校でムチを打たれ、目が悪いのに膨大な量のテキストを書き写させられるなど教師からひどい仕打ちを受けたことのある八雲は日本の教育現場に仰天し、こう記しています。
《教師は、決して頭から叱りつけるようなことはせず、生徒を非難することもめったになく、懲罰を与えるようなことは決してない。日本の教師で生徒を殴る者はいない。もしそのような行為をしたら、その教師はすぐに職を追われるだろう。冷静さを失って怒ることもない。そんなことをすれば、教え子たちや、同僚たちの眼の前で、自分を貶めたことになるからである。》(『新編日本の面影』「英語教師の日記から」)
《たまに、ひどいいたずら小僧が、休み時間に教室から出してもらえないこともあるが、こんな軽い罰でさえも教師が直接与えるのではなくて、教師の訴えを聞いた校長先生が科すのである。》(『新編日本の面影』「英語教師の日記から」)
遡って江戸時代の寺子屋の資料にも体罰の記述は見られません。西洋から「人権」という概念が導入される前から、そもそも日本に体罰という発想はなかったのです。
例えば体罰の代表ともいえる「びんた」は『日本国語大辞典』によると大正から昭和初期にかけて生まれた「新語」です。教師による体罰は軍国主義化が急速に進むとともに日本中に蔓延していったのです(ちなみに八雲も家庭ではしつけのためにお尻ペンペンをしています)。
《更に言えば、西洋の学校においては、規律が必要だと考えられているが、日本の学生たちは、ある種の自主独立を主張し、これを享有している。》《万が一、そんな懲罰があったとしたら現在この状況においては、生徒自身が黙っていないだろう。》(『新編日本の面影』「英語教師の日記から」)
実際、「学校紛擾」と呼ばれる生徒たちが学校側と対決した事件は明治初期、学制が定まるのとほぼ同時に発生し、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されていて、実数は更に多いのだとか。
漱石が帝国大学の授業を学生にボイコットされたのも、そういう背景があったわけです。
八雲は日露戦争をどう見たか?
八雲が焼津で過ごした最後の夏は日露戦争開戦の半年後でした。亡くなる一ヶ月前の様子を長男の一雄は『父「八雲」を憶う』でこう著しています。
《この年は焼津滞在日数が例年になく少なかったのは前述の如く子供の学校の休暇期日の関係もあったのでしょうが、そればかりではないのです。父は今までとは違って忙しくなっていたのです。もうこの時は帝大の方は止めて早稲田の講師になっていましたし、丁度日露戦争が始っていましたので、海外の新聞雑誌へ盛んに日本の肩を待った記事を書き送っていましたから。焼津に居る間も始終新聞や号外に注意し戦争の様子をしきりと気にしていました。殊に浦塩*艦隊が日本の近海に出没しては客船や漁船を撃沈するのを甚く憤慨していました。》
*浦塩 = ウラジオストック
《八月十四日の晩であったかと記憶します、風のない蒸暑い晩でした。急に往来が騒々しくなったと思うと「帝国万歳」だの「大勝利」だのと白布に朱記した小旗を打ち振り打ち振り、鈴音勇しく「号外々々」「とうとう遣ッつけたゾ!」と連呼しつつ焼津の街を軒毎に抛り込んで行った号外は、浦塩艦隊撃滅の快報でした。父は「こう何ぼう喜ばしいの鬼退治!」と叫んで乙吉さんの店にあるだけの玉ラムネをポンポン開けて皆に振舞いました》
《その翌日の新聞に、夥しい捕虜の数が記載されてあるのを見るや父は「ああ!」といって大息の裡にもあの大きな独眼が潤んで来ました。「ああ、あの悪魔を救けましたか! 何故救けましたか! 何ぼう上村さん*心大きいの仁です! 仇でさえも救けるのは善事です。しかし、しかしあのウラジヴォストックの艦隊の者皆人ないです。鬼です。有難いを知るないの鬼です。救けるないよきでした。日本人余りに神様のような心です。仏様の心です。今日まで日本に参りました沢山の悪い西洋人の宣教師やスパイを皆、日本の人上村さんのような善き心で可愛がると(鄭重に扱っての意)帰しました。その西洋人故国に帰りましたの後、皆、日本の悪口します。日本を軽蔑します」》
*上村彦之丞海軍中将のこと。蔚山沖海戦では沈没した敵艦の乗組員を「敵ながら天晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命じ、627名を救助した。
八雲は日本に来てから亡くなるまでの14年間で『日本の面影』『怪談』など13、4冊の作品集を残していますが、西洋各国で広く読まれるようになったのは、日露戦争が勃発し、ロシアを相手に日本軍の善戦が世界に報じられてからです。
漱石は日露戦争をどう見たか?
一方、17歳年下の漱石は日露戦争をこう描きました。
《大和魂!と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした。……大和魂!新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。東郷大将が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。……大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行つてからエヘンと云ふ声が聞こえた。》(『吾輩は猫である』)
漱石は『三四郎』でも《いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。》《あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。》
「これぞ大和魂!だとか武士道精神!だとかと恥ずかしげもなく自画自賛するのは、劣等感の裏返しなんじゃないの?」というシニカルな態度は八雲とは対象的です。
『三四郎』はこう続きます。
《「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。》
文豪たちの予言
日本が滅びる……。実は大の日本贔屓の八雲も日清戦争後にこんな一文を書いています。
《新日本の真の誕生は、じつにこんどの中国征服をもってはじまったのである。戦争はおわった。》《この上さらに雄姿をのばして 国家永生の偉業をなしとげるためには、そこにいくたの暗澹たる障碍が横たわっていようけれども、しかし、日本はそれに対して、なんの怖れも疑いもいだいていない。》《おそらく、日本の将来の危機は、じつにこの途方もない、大きな自負心にあるともいえるだろう。》(『心』「戦後」)
その後、日露戦争、第一次世界大戦の勝利で日本は西洋列強と肩を並べるまでになりました。しかし、満州事変を経て盧溝橋事件に始まる日中戦争が泥沼化すると、八雲の愛した日本古来の神道的な感情は歪んだ形で偏狭な国家主義思想と結びつき、絶望的な太平洋戦争へと突入していったのはご存じの通りです。
八雲と漱石。日本の将来の危機を予言した2人の文豪は、ともに池袋の近くにある雑司ヶ谷霊園に埋葬されています。
参考文献
- 『焼津市史 漁業編』(焼津市編さん委員会/焼津市)
- 『全訳小泉八雲作品』(恒文社)
- 『決定版 小泉八雲全集 決定版日本文学全集』(文豪e叢書)
- 『新編日本の面影』(ラフカディオ・ハーン/角川ソフィア文庫)
- 『小泉八雲東大講義録——日本文学の未来のために』(角川ソフィア文庫)
- 『NHK100分DE名著ブックス 小泉八雲日本の面影』(池田雅之/NHK出版)
- 『人間小泉八雲』(高木大幹/三省堂選書)
- 『破られた友情 ハーンとチェンバレンの日本理解』(平川祐弘/新潮社)
- 『夢の途中』『神々の国』(工藤美代子/集英社)
- 『門』『吾輩は猫である』『三四郎』(夏目漱石/ゴマブックス)
- 『漱石の思い出』(夏目鏡子述、松岡譲筆録/文春文庫)
- 『早稲田百年史』(早稲田大学大学史編集所/早稲田大学)
- 『人間漱石』(金子健二/協同出版)
- 『感染症の時代と夏目漱石の文学』(小森陽一/かもがわ出版)
- 『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』(高野陽太郎/新曜社)
- 『菊と刀』(ルース・ベネディクト/光文社古典新訳文庫)
(おしまい)