水産振興ONLINE
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2019年9月

中・小型漁船市場をめぐる産業構造の変遷—船価高騰にどう影響したか—

濱田 武士(北海学園大学経済学部 教授)

第二章 中・小型漁船の市場構造の変遷

和船の時代

日本の沿岸で使われている漁船の型は、刳舟から始まり、構造船になっても「和型」を基本にしてきました。

近世には、現在行われている沿岸漁業のほとんどが出そろっていたと言われていますが、漁業の沖合化も進められていました。まだ動力がなかったことから、沖合化を進めたのは帆船でありました。

明治期になると、殖産興業が進められているなかで、欧州から様々な近代技術が輸入されると、蒸気機関、焼き玉エンジンなどの動力源を搭載した漁船が使用されるようになりました。沖合漁業の発展であり、資本制漁業の拡大です。

こうして、明治期になると漁業者の階層分解が進み、沖合へはすでに帆船タイプの漁船が展開し、やがてエンジンを搭載した一部の漁船も沖合に展開しました。沿岸漁場で操業するのは無動力船がほとんどであり、沿岸漁業と沖合漁業に漁船が分化していきました。

沖合漁船は、主として欧州からの輸入技術を基本に発展していました。当初は、イギリスなど欧州からの輸入漁船が使われましたが、やがて造船技術のキャッチアップの成功により、日本の造船所でも西洋型の漁船が建造されるようになりました。木船もあれば、鋼船もあります。主に沖合漁場に向かう漁船は、トロール船など外来技術を基本にしているものもありますが、在来技術と混ざった和洋折衷船も存在しました。

明治期から大正、昭和と時代が進むと同時に、国内で製造した舶用機関が供給されるようになりました。小型の機関も開発されるようになり、沿岸漁船でも、そうした機関を搭載する漁船が登場します。しかし、船型においては、ほぼ、在来技術を基本とした和型漁船が使われていました。もちろん船質(=船体の材質)は木材です。

「和型」とは、船底材や肋骨など骨組みを組み立てて短い板を張り付ける「西洋式」船体構造と異なり、船底材に長い板を貼り付けながら肋骨で船型を支える船体構造のことを指します。沖合漁船については、外来技術が導入され、西洋式の漁船が主になり、さらに高度経済成長期には木造から鋼船に移り変わりましたが、沿岸漁船については高度経済成長期でも和型漁船が使われ続けました。和型漁船は、北前船など商船も含めて、日本伝来の造船技術を引き継ぐものとして戦後も浜に残り続けたのです。

こうした和型漁船を供給していたのは拠点漁村に存在していた船大工集団です。船大工の棟梁は弟子を揃えて船体を建造しました。船材については材木商から仕入れることもありますが、特殊材が多いことから自ら山に入り調達することも多々ありました。設計図はなく、板図と呼ばれる簡単な図面だけが利用されていました。和型漁船が存在し続けたのは、漁業者が漁船を手にするには、棟梁の技術に頼らざるを得なかったからです。つまり、漁業者に対して、それ以外に漁船をセールスする存在がなかったからです。あくまで、新たな漁船の作り手は、棟梁から技術を学び、体得して独立する弟子たちでした。棟梁を中心にした船大工集団が沿岸漁船の供給部門の担い手であり続けました。

沖合漁船については、木造船であっても西洋式漁船が多くなるなかで、沿岸漁業において使用されている漁船については西洋式になることはならなかったのは、造船の担い手が変わらなかったためですが、沿岸漁業の漁労技術が地元の自然に合わせて築き上げられてきたものであり、極めて「技能」に偏重し、漁業者の拘りと誇りがにじみ出るものです。伝統から逸脱した新たな道具や技術を受け入れる余地が少なかったことも関係していると思います。これまでの技術以上に使い勝手の良さや競争力を高めるのならば別ですが、それが沿岸漁業者の前に出現しなかったといえるのではないでしょうか。もっとも、手漕ぎから内燃機へと動力源を新たにすることは競争力を高める機会にはなりましたが、近代技術であっても、西洋式船体(船殻)を使ったところで、競争力が高まるとは考えにくいです。漁労技術は漁具と漁船とが一体化したものであり、そこに漁業者が介在します。動力化を進めても、漁業者が慣れ親しんできた漁労技術としての「船型」を変える理由はほとんどなかったと思われます。ただし、材質の革命はあり得る話でした。