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水産振興コラム
20211
定置漁業研究について
第8回 台風による高波と急潮が定置網に及ぼす影響について
石戸谷 博範
(東京大学平塚総合海洋実験場)

1. 定置漁業との関わりについて

最初に相模灘と言う海の名前を身近に感じたのは、神奈川県立湘南高校校歌(1933(昭和8)年、北原白秋作詞、山田耕筰作曲)の3番「澎湃と満つる潮は 相模灘ぞ この海 騰げよや 我が士気 波も頻吹けり」の歌詞でした。校歌が出来た1933年の神奈川県のブリ漁獲量は53万本、白秋先生もきっと活気あふれる勇壮な相模灘を歌詞に選んだと思います。教室の窓から、きらきらと輝く相模灘を眺め大海原に夢を抱く高校時代でしたが、当時はその海に沢山の定置網があり、ブリ漁獲量日本有数の時代(写真1,2,3)を経て、豊かな海の幸を届け続けていることを残念ながら知り得ませんでした(最近は、「湘南の海とさかな」をテーマに母校で時々お話ししているので知る生徒も多いかも知れない)。

写真1 写真1 1916(大正5)年1月24日 岩江漁場(真鶴・小田原沖)のブリ大漁 一網六万本 写真2 写真2 1916(大正5)年 丸川漁場(小田原市小八幡)の砂ブリ 写真3 写真3 1952(昭和27)年5月1日 米神漁場のブリ大漁 一網二万本

東京水産大学水産学部漁業学科の漁撈学Ⅰの講義で小池 篤先生より定置網の分類から始まるご教授を受け、実地の漁業調査として相模灘の定置網名場「米神漁場」を学ぶ機会を得ました。当時は大目の垣網等は藁網(写真4)で、その黄金色が目にまぶしく感じられたのを記憶しています。神奈川県庁水産課に就職し、始めに就いた仕事で定置漁業権の切換え(全定置網漁場の測量)を行いました。敷設位置が基点から600mの近い漁場や3kmの遠い漁場など海底地形や対象魚種により定置網は様々であるとことを実感いたしました。その後、水産試験場相模湾支所に配属となり、定置網の調査に携わることになりました。

写真4 写真4 藁綱による垣網の手すき作業(1992年 神奈川県小田原漁港)

2. 定置漁業の重要性について

本コラムを執筆するあたり長谷理事の第1回のコラムを読ませて頂きました。私も定置漁業の重要性の認識については、全く同感でございます。

私が働かせて頂いた神奈川県では、定置網は沿岸漁業生産量の6〜7割を占める非常に大切な漁業種類であり、私が住む藤沢市の鮮魚店やスーパー鮮魚部門では、小田原漁港、平塚漁港、江ノ島漁港等、相模湾の身近な産地のラベルを貼られた定置網漁獲物の刺身用鮮魚パックが毎日並ぶようになっています。また、各漁港とも、定置網の従業員は若い人が中心で、熱心に勉強し、家族を養い、地域の活性化に大いに貢献されています。まさに定置網は大切にしたい重要な産業と確信します。

3. 日本近海の海面水温の上昇

勢力の強い台風や爆弾低気圧により、全国で定置網や養殖施設の被害が多くなっています。原因として、温暖化=海面水温の上昇が言われています。気象庁のHPより抜粋した解説を次に示します。「2019年までのおよそ100年間にわたる海域平均海面水温(年平均)の上昇率は、+1.14°C/100年です。」と解説され、日本近海の海面水温は確かに上昇していることが示されています。

気象庁の解説 (日本近海の海面水温の上昇率の特徴 気象庁HPより)

下図の青丸は各年の平年差を、青の太い実線は5年移動平均値を表します。赤の太い実線は長期変化傾向を表します。平年値は1981年〜2010年の30年間の平均値です。日本近海における2019年までのおよそ100年間にわたる海域平均海面水温(年平均)の上昇率は、+1.14°C/100年です。 この上昇率は、世界全体や北太平洋全体で平均した海面水温の上昇率(それぞれ+0.55°C/100年、+0.53°C/100年)よりも大きくなっています。また、およそ100年間にわたる日本全国の年平均気温の上昇率(+1.24°C/100年(統計期間:1898〜2019年))と同程度の値です。

日本近海の全海域平均海面水温(年平均)の平年差の推移

次項で示す2019年台風19号もまた、経路の海域の海面水温は平年より高めであり、「大型で非常に強い」レベルから上陸時においても「大型で強いレベル」を保った典型的な事例でありました。

4. 勢力の大きい台風の直撃と定置網の実態(2019年台風19号)

2019年の台風19号(令和元年東日本台風)は、10月6日3時にマリアナ諸島の東海上で発生し、12日19時頃に伊豆半島東岸から相模湾に上陸しました。関東地方や甲信地方、東北地方などで記録的な大雨となり、河川の氾濫等甚大な被害が発生しました。ここでは、発生から上陸までの相模灘の荒れる海と定置網の実態についてお話します。

図1 図1 2019年台風19号の気象庁台風経路図に東京大学平塚総合海洋実験場
平塚沖波浪等計測データを添記した図

(1) 台風2019年19号による相模灘の海と定置網の状況

図1に気象庁台風経路図に東京大学平塚総合海洋実験場平塚沖波浪等計測データを加えた記録を示します。台風が発生し西進した10月6日から9日午前中(N15.1度、E157.4度〜N19.8度、E140.4度)までは、平塚沖の波、周期ともにまだ穏かな状況でした(8日21時の127.2cmのやや高い波は日本海低気圧の影響)。

台風がN20度を越えた9日夕刻より周期の長い(11秒を越える)うねりが入り始め、10日の定置網の操業時(0時〜6時)には平塚沖では波高2m、周期12〜14秒のやや高いうねりとなりましたが、この中、相模灘の定置網は全漁場操業を行いました。

10日の水揚げが終了し休む間もなく、台風に備えての網抜作業が始まりました。後になって分かることですが、網抜き作業が安全に出来た最後のチャンスでした。

11日の操業時、台風はN26.3度、E138.6度付近にあり、平塚沖では波高2.5m、周期12〜14秒、北寄りの風10mを越え、西湘、伊豆の定置網は一部操業しましたが、その他は網抜中か荒天の為、操業を断念しました。ここで思いおこすのが、水産振興624号座談会定置網漁業研究P10、静岡県定置漁業研究会 日吉直人会長の「神奈川県の湘南地域は海岸線が南に向いています。僕は伊豆半島の東岸なので、東側や北東側を向いています。ですから、直接うねりが入らないのでまだ対応できるのですが、相模灘の中でも湘南の定置は対応が非常に難しいのではないでしょうか。沖に台風や低気圧があると波長の長い力のある波が来ますので、なかなか急潮対策というのはできない現状があるのが事実です。」とおっしゃられたご発言です。私もまったくその通りと実感しております。この台風でもN20度を越えて北上し伊豆半島付近に上陸するまで、伊豆半島から箱根の山々が東伊豆と西湘の定置網漁場を台風から守っていたと考えられます(東から西に進んだ2018年台風12号は例外)。

12日0時頃、台風はN30度を越え、同19時頃、気圧965hPa、最大風速35mで伊豆半島に上陸しましたが、12日19時の平塚沖では、最大波高10m、周期12.2秒、流速1.73ノット(西南西向)、風速30.2m/s(南西風)、気圧968.5hPaを記録しました。波、流れ、風速ともに、海中にある定置網にとりましては、流出、全損が心配される極めて厳しい状況になっていました。

(2) 台風2019年19号が相模灘の定置網に及ぼした影響

図2に波浪や急潮に耐久実績のある片中層網の側面写真を示します。
流速0ノットでは、矢引台浮子から台浮子まで側張は全て浮上しており、運動場から登網下端は海底に着底、その後ゆったりとスロープを描き中溜網から袋網は魚群をスムーズに誘い込むよう一直線に張られています。最も細目の袋網は中層網らしく水深6m〜19mに形よく展開しています。

それでは、台風が上陸した12日19時の平塚沖のデータ(最大波高10m、周期12.2秒、流速1.73ノット(西南西向))より、流速1.8ノットの流れを再現し、高波の水粒子の運動を模式的に示して見ました。1.8ノットの急潮はレベルとしては、非常に早いと言えます。上流の矢引台浮子は17m程沈下し、運動場から袋網にかけて上流方向を下に傾斜して沈下しています。特に注意するべき点は、最下流に位置する袋網が流速0の時に比べて海面近くまで吹きあがっていることです。波の運動は浅いほど強く、細目の袋網はより一層激しい波浪に翻弄され、同時に急潮に引っ張られると考えられます。矢引台浮子は17m沈下しているので、波の運動はやや減少することでしょう。

図2 図2 片中層網の側面からの様子(上図:流速 0ノット、下図:流速 1.8ノット)
(神奈川県水産技術センター相模湾試験場 回流水槽実験より)

高波(10m)と急潮(1.73ノット)の同時発生による定置網への影響は、極めて大きいものがあります。急潮による主側張及び土俵綱への過大張力と波の楕円運動による振動により、土俵の移動、土俵綱の切断の危険性が高まり、各部網のボタン綱切れ、各部網の脱落・流出、網地の走破、図3の主側張連結部(こっきり、シャックル)の損傷、最も厳しい状況では図4の主側張の破断となることでしょう。

図3-1 図3-2 図3 主側張の連結部(こっきり、シャックル)
図4 図4 主側張の破断

5. おわりに

ここでは、勢力の大きい直撃型台風による高波と急潮が定置網に及ぼす影響について、お話しさせていただきました。でも、これは定置網が大海原から受ける厳しさの一部です。先の水産振興624号 座談会定置網漁業研究 P28 青森県定置漁業協会 堀内精二会長の「3年前ぐらいにも、すごい海水温が高くなって潮の流れが急激な年があったのです。あの時も和歌山で定置をやっている方も流されて、それも全部波浪ではなくて、潮でやられました。うちの定置も3ヶ統全部潮でやられました。」と言うご報告です。まさに、「天気静朗なれども、潮早し」という状況です。この音もなくやってくる急潮と定置網の実態については、また、次の定置漁業研究とりまとめ報告書と水産振興でお話したいと思います。

プロフィール

石戸谷 博範(いしどや ひろのり)

1954年神奈川県生まれ、神奈川県立湘南高校から東京水産大学修士課程修了後神奈川県庁入庁、農政部水産課、東京水産大学講師(神奈川県在職のまま)、水産技術センター相模湾試験場長、2015年退職。現在、東京大学平塚総合海洋実験場、博士(東大農学)